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山本藍子展/オークション

諸事情で遅れてお詫びいたしますが、
山本藍子展/オークション情報を流して行きます。

先ずは大作です。
新人とは言っても、大作は力作であることもあって価格も高いです。
この価格の高さについても、何人かから間接的に批判を頂いていますが、
しかし価格は私の責任で付けているのであって、
批判か甘受しますが、私はこうした人びとを敢然と無視するのです。

文句があるのなら、自分の責任で、かってに美術展をやって、
自分の責任で値段をつければ良いのです。
今日の社会は自己責任の社会なのです。
責任も取らず、匿名で、安全な所で文句だけいう人は、
文句だけ自由に際限なく言えば良いのです。

さて、
取りあえず画像を見て下さい。

山本藍子2.jpg

豚のイメージが見えますし、
山本藍子が愛するレース模様が執拗に描かれています。

執拗に描き込む事に、山本藍子は執念を燃やします。
この執念は工芸的な画工性なのか、画工を超えたものなのか?
その疑いは、あります。

しかし作られた作品は、単なる装飾画ではなくて、
装飾の形骸ともいうべきものになっています。
しかし「装飾の形骸」とは何でしょうか?

山本藍子が見ている豚は、これは本物の豚を大阪の○○で買って来たもの
ですが、参照しているレースは、古典的なレースの写真本なのです。
レースの写真を参照しながら、やや乱暴で、やや汚い線で執拗に摸倣され
引き写されて行くレースの装飾性は、描かれる事で、レース本来の
構造や美しさ、緊張感は失われて、形骸化して行きます。
なぜに、山本藍子は、こうした形骸化の作業をやり続けるのでしょうか?

法華経を根拠に装飾を肯定した宗達や、
1970年代のアメリカのパターンペインティングを批判的に
知っている私には、分かりやすい絵画ですが、何人かの私の友人は、
分かりにくい作品だと言います。、

この作品を具象画と見る人もいるかもしれないし、
具象画と了解しない人もいるのです。

さらには執拗なレース模様を、豚に描かれた刺青と見る人も入れば、
この絵画の中に、ポロックのオールオーバーの絵画の木霊(こだま)
を聞く人もいるのです。

私にとっては、ポロックのオールオーバーというのは、1950年代の
古い美術の木霊(こだま)であって、これを聞いてはいけないとも思いま
せんが、しかし、レース模様に置き換えられて行った時に出現してくるものは、
実は、ポロックのドリッピングを糸にうおって編まれたレースの装飾性に
置き換えたものとは違うものなのです。

この絵画は、豚が描かれているせいもありますが、
200号という大作でありながら、鑑賞構造としては〈対話〉という
中規模の絵画に多く見られる作品となっていました。


〈対話〉というのは、ピカソに代表されるような絵画構造で、
絵画=人物画という定義で成立しています。事実ピカソは、
セザンヌを摸倣している時のいくつかの風景画や静物画がありますが、
作品の圧倒的な多くは人物画なのです。
それはヨーロッパの中に絵画=人物画という定義が存在するからです。

つまり《対話》構造の中で描かれる豚というのは、イコール人物画
であり、さらにはトレースでれるかのように描かれるやや汚い線の
レースは、人物の暗喩なのかもしれないのです。

しかし《対話》にしては、この作品は大作過ぎるし、なによりも
「群像」になってしまっています。
人物画が群像画になると、その絵画はラファエロの群像画のように、
建築絵画がもつ《驚愕》という鑑賞構造に変貌します。

つまり山本藍子の大作は、《対話》という鑑賞構造をはみ出して、
群像画という建築美術に変貌する要素を持っていたのです。

それだからからかもしれませんが、
搬入された時は加筆がされて、作品構造は激変し、
作品は、《驚愕》という建築美術の大作の構造に変貌していました。

下に掲載される画像は、撮影はiPhoneでの撮影ですので、
あくまでも仮の写真として見て下さい。


山本藍子大作3.jpg

(つづく)


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