SSブログ

ディック・ブルーナ(加筆1) [アート論]

6a00d83451bcff69e200e54f62480e8834-640wi.jpg

ディック・ブルーナの仕事には、昔から好感を持って来ました。
子供に、何冊か買っていて、子供と一緒にしげしげと見てきています。

しかし、彦坂尚嘉の『アートの格付け』で言えば、
《第6次元 自然領域》なのです。
私は《第6次元》が嫌いです。
にもかかわらず、何が肯定的な魅力を生み出しているのです。

db9009_large.jpg

彦坂尚嘉責任による芸術分析
 
 
《想像界》の眼で《第6次元 自然領域》のデザイン的エンターテイメント
《象徴界》の眼で《第6次元 自然領域》のデザイン的エンターテイメント
《現実界》の眼で《第6次元 自然領域》のデザイン的エンターテイメント

《想像界》《象徴界》《現実界》《サントーム》の4界をもつ重層的な表現
 
気体/液体/固体/絶対零度の4様態をもつ多層的な表現
                       
《シリアス・アート》《気晴らしアート》の同時表示。
《ハイアート》と《ローアート》の同時表示。
シニフィアン(記号表現)とシニフィエ(記号内容)の同時表示
理性脳と原始脳の同時表示
原始平面》『ペンキ絵』【B級美術】

《原芸術》、《芸術》、《反芸術》は無い。
《非芸術》、《無芸術》《世間体のアート》がある。

 


868347392_aba49c4ebd.jpg

デザインであり、イラストレーションであるのですが、
《想像界》《象徴界》《現実界》《サントーム》の4界をもつ重層的な表現
であるので、ひと味違うのです。

普通のデザインは、《想像界》だけなので、
ディック・ブルーナの作品は、普通のデザインやイラストではないのです。
Nijntje post.jpg
ディック・ブルーナの優秀性は、ご本人の顔からも分かる事です。

Dick Bruna 80 jaar 006.jpg

dick-bruna.jpg

dick_bruna-1.jpg

dickbruna-883.JPG.jpg
彦坂尚嘉責任による顔の分析
《想像界》の眼で《第6次元》の《真性の人格》
《象徴界》の眼で《第6次元》の《真性の人格》
《現実界》の眼で《第6次元》の《真性の人格》

《想像界》《象徴界》《現実界》《サントーム》の4界をもつ重層的な人格
液体人間=近代の
《気晴らし人間》《シリアス人間》の2重性がある。
《ローアート的人間》と《ハイアート的人間》の2重性がある。

シニフィアン(記号表現)人間。
真実の人

普通の凡庸な人の顔は、
《第6次元 自然領域》で、《想像界》だけがあるという
単一の構造しかありません。

ディック・ブルーナの場合には、
《想像界》《象徴界》《現実界》《サントーム》の4界をもつ
重層的な人格なのです。

彦坂尚嘉が観察して来た限りでは、
《第6次元 自然領域》の人で、《想像界》だけの人格の人は、
実は人格が無いという、《言語判定法》での結果が出ます。

顔写真に「人格」という言葉を投げかけても、人格が無いという
反応が返ってくるのです。

「人格が無い」というのは、人間が平等であると言う人権思想からは、
許しがたいものに思われるかもしれませんが、
事実として人間を観察していけば、
人間は平等ではなくて、極めて多様なのです。
その中には、人格がないと《言語判定法》では測定される人びとが
存在しています。

普通の場合に子供は、《第6次元 自然領域》で、
《想像界》だけの精神構造で、
人格がありません。
子供は、人間というよりも、動物なのです。

子供を無垢ですばらしい、と評価する人がたくさんいますが、
実際には子供は動物であって、
人格として素晴らしいのではありません。

つまり《第6次元 自然領域》で、
《想像界》だけの人格の人は、
人間というよりは、子供の精神構造の延長で大人になった存在で、
人格は、無いと言うべき無人格の存在であるように、
彦坂尚嘉の《言語判定法》では見えます。

ですから、私は《第6次元 自然領域》の人には、
人格は無いと思って来たのです

ところが、
ディック・ブルーナの場合には、そうではないのです。
《想像界》《象徴界》《現実界》《サントーム》の4界をもつ
重層的な人格なのです。

「人格がある」ということは、
ディック・ブルーナのように、重層的な人格の場合に言える事なのです。

つまり人格と言うのは、こうした重層性の構造のことです。

では、《第6次元 自然領域》でありながら、
こうした重層的な人格構造を持っている実例は見つかるのでしょうか?

そこで思い出したのがアメリカ先住民の酋長の顔です。

SittingBull.jpg

彦坂尚嘉責任による顔の分析
《想像界》の眼で《第6次元》の《真性の人格》
《象徴界》の眼で《第6次元》の《真性の人格》
《現実界》の眼で《第6次元》の《真性の人格》

《想像界》《象徴界》《現実界》《サントーム》の4界をもつ重層的な人格
固体人間=前近代の人
《シリアス人間》
《ハイアート的人間》

非識字の人。
真実の人

つまり《第6次元 自然領域》の無文字文化の人びとの中にも、
重層的な人格構造を持つ人間は存在しているのであって、
このような酋長の顔は立派なものであって、
これは人間であり、動物ではないのです。

つまり《第6次元 自然領域》であるからといって、
動物でしかないという事はないのであって、
無文字社会の段階でも、レヴィ・ストロースが言うように、
人格の構造化は起きているのです。
つまり動物からの離脱という段階は《第6次元 自然領域》でも
あると言う事です。 

ついでにレヴィ・ストロースの顔を見ておきます。
ClaudeLeviStrauss.jpg

claude_levi_strauss.jpg

strauss-2-740208.jpg

cls.jpg

claude-levi-strauss_machado1209828628.jpg

levi-strauss.jpg
 
さすがにレヴィ・ストロースは《超一流》です。


確かに《第6次元》の野生領域の中にも、
構造はあったのです。

そういうものとして、
ディック・ブルーナの作品は、
重層的なすぐれた《第6次元 自然領域》の
デザイン的エンターテイメント作品なのです。

こうした重層性は、鑑賞構造にも現れています。
ディック・ブルーナの作品は、
《愛玩》という鑑賞構造で作られています。

illustration.png

omslag bruna.jpg

 

 

 


ところが《対話》という、鑑賞構造で制作されているものも
あります。


670138.jpg

dick_bruna_appel2.jpg

その根底には、モンドリアンを鑑賞するような眼が存在している様です。

miffy.jpg

あるいは、中世のステンドグラスの薔薇窓へとつらなるような、
ものも、感じられます。

Bristol.cathedral.rose.window.arp.jpg

ディック・ブルーナというすぐれた《第6次元 自然領域》の
デザイナーの仕事を見ていると、
私自身の中にあった《第6次元 自然領域》を嫌う気持ちは、
うすらいで行きます。

問題の所在は、《第6次元》とか《第1次元》とかいう次元の差に
あると言うよりは、むしろ重層的な構造の有無なのではないだろうかと、
考えるようになったのです。

つまり「重層性こそが人格である」、あるいは「重層性こそが芸術」
であると言う定義が、出来るように思えて来たのです。

こういう定義の有効性は、
たとえば東洋の芸術の場合、書が重要で、書において芸術が
成立したと言われますが、それは王羲之の書の成立を、
意味しています。

つまりいろいろな原因から生まれて来た文字を、
ひとつの書体で通して書くだけでなくて、
それを複数の書体でも書き通すと言う、システムアート的なことを
実現したのが王羲之です。
こうした多重性を持つ技を、芸術といって、
単層的なものを職人仕事と分けるのです。

こうした多重性を重視するのは、東洋だけではなくて、
欧米の芸術観の根底にもあります。
つまりレオナルド・ダ・ヴィンチのような万能人をアーティストと
言うのであって、アルチザンという職人と、峻別する視点です。

このアートにおける重層性の構造は、
実は人格の重層性と重なっているのです。
つまり人格が、《想像界》《象徴界》《現実界》の3界、
さらには《サントーム》を入れた4界までの
重層的である人格者が、すぐれた重層的な作品を作りえるのです。

ディック・ブルーナのすぐれた《第6次元》のデザインが示している
のは、こうした重層的な表現の構造を持った、
デザイン的エンターテイメントの魅力なのではないでしょうか。

nice!(3) 
共通テーマ:アート

nice! 3

2010-04-30ノベルティ作品 ブログトップ

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。