SSブログ

美術は西欧のものか? [アート論]

知人から、次のような個人メールをいただきました。

アートフェア東京の出品作品の悪さを書いた私のブログへの、

反応です。


美術という概念は、あくまでも西洋のものです。

ですから美術という概念で日本という社会を

捉えると、どこまでも悪い場所でしかなく 

大衆と呼ばれる日本人がどこまでも美術については

無学な教養のない、価値のない人々ということに止まるのだと

考えるようになりました。


多くの美術家は、または美術関係者は、一体にご自分の出自をお忘れなのでしょうか? 

肌の黄色いでも欧米人だとお考えではないかと感じることが多々ございます。


◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆


こういう反応を持たれるお気持ちは理解できます。

明治維新以降の日本の洋画を見ると、西洋美術の輸入の歴史のように

見えるからです。


私自身も、日本洋画の末裔であります。

そういう存在に対して「多くの美術家は、または美術関係者は、

一体にご自分の出自をお忘れなのでしょうか?」という言葉を

投げかける気持ちは、良くわかります。


たとえば萬鉄五郎という洋画家がいます。

萬は、フォーヴィズムや、キューヴィズムの早い輸入で有名になった

画家です。

日本美術の近代化の先駆者として評価が高いアーティストです。

私たちはその輸入という、西洋の美術に出自のある美術に、

不満や、怒りをもっているのでしょうか?


萬鉄五郎の回顧展が国立近代美術館で数年前に開催されていますが、

晩年に至るまで、萬鉄五郎の作品は『ペンキ絵』で、

絵画として、高みに向って成長していきません。

真面目に萬鉄五郎の作品を研究してみれば、

そこにあるのは駄目さであって、輝かしい芸術家の姿は無いのです。

むしろ歳を減るごとに駄目なものへと退化して

いきます。

この辺は岡本太郎の晩年の仕事の劣化のひどさと似ています。


しかも、萬鉄五郎においては、

西欧から輸入したはずのフォーヴィズムも、

キュービズムも追求されていいなくて、

油絵で、南画という東洋画を描くという、ドジな伝統主義に回帰

していくのです。


つまり若い時は、西洋美術を輸入して始まっても、

それを真摯に追求していくという事は日本のアーティストには、

まったくと言って良いほどに見られない事で、

日本の伝統的な美術の風土に回帰して、ローカルなアートとして、

大衆の理解できる表現へと回帰していく事なのです。


一番ひどいもののひとつは今井俊満の晩年の花鳥風月や、

さらに後の政治的な絵画です。


一見、アンフォルメルから始まったように見える作品展開ですが、

あるのはいつも《6流》の愚劣な美術の連鎖であって、

人類の作り出す芸術の高みへのあこがれを欠いた低さだけです。


低いものだけの世界は、今井俊満に限らず、

岡本太郎であろうと、会田誠であろうと、森村泰昌であろうと、

日本の近代/現代美術につきまとうものです。


「美術という概念は、あくまでも西洋のもの」ということは、

本当のことなのでしょうか?


北沢憲昭の『眼の神殿』や、柄谷行人の『日本近代文学の起源』に

書かれている、近代以前に日本には○○は無かった、というパターンの

指摘は、実は虚偽であり、迷信に過ぎないのです。


つまり美術は、概念以前に存在するのです。

恐竜と言う言葉や概念がなくても、恐竜は巨大化して歩き回って

いたのであって、日本には美術は、恐竜のように存在していたのです。


エジプトにも、美術や芸術という言葉も概念もありませんでしたが、

しかし言葉以前に、美術や芸術は存在したのです。

それはビックバンの起きた宇宙の始元には、ビックバンと言う概念も

言葉もなかったのに、ビックバンが存在したように、

エジプトには、美術や芸術は存在したのです。

これはニューヨーク近代美術館のルービンという有名学芸員が、

主張している事です。


私の著作でも指摘している事ですが、柄谷行人の執筆には、

事実誤認がひどい多さで存在しています。

それは北沢憲昭の著作にも言える事であって、

基本において間違いなのです。

日本には、明治維新以前から、遠近画法も存在したし、

美術も芸術も存在していたのです。


存在していないというのは、迷信なのです。

日本人に限りませんが、人間というのは迷信を信じて生きているに

過ぎないのです。

何も調べず、何も研究しないで、答えを見つけて、

盲目的に信じるのです。


たとえば「国家」という概念も西洋のものであり、

「自動車」とか、「カメラ」とか、「映像」という概念も、

西洋のものであると、日本人は信じています。。

そもそもが「概念」というものが、西洋のものであると信じています。


しかも日本列島に生息するニホンザルが進化して日本人になったと

いうわけではないので、

日本人という人種の起源が日本になくて、

アフリカで生まれた「ヒト/ホモサピエンス」が、

日本列島に住み着いただけなので、

日本人はいなくて、

アフリカ類人猿の一種がいるだけなのだと、日本人は信じています。


事実、国技と言われた相撲は実はエジプトに生まれたもので、

紀元前2000年前のピラミッドの中に、

相撲の48手の取り組みの図柄が、

描かれているのです。


尺八もエジプト生まれで、日本建築の基準であるルート2も、

エジプト生まれです。

つまり日本はエジプトであって、

「日本人はエジプト人である」と、日本人の多くは信じているのです。


もうひとつ重要なのは、書き文字です。

日本人は書き文字を発明しなかったので、

書き文字自身が中国から渡って来た外来文化です。

ですので日本の中には、

無文字文化が、実は今も息づいているのです。

つまり日本には文字は無くて、

日本文化の本質は文盲性なのです。


さらに仏教です。

仏教は中国経由で日本に入って来た外来の宗教ですので、

日本の根底にあるものではないのです。

伊勢神宮の外宮である度会(わたらい)神道が、

「神皇正統記」を産み落とし、さらに「大日本史」になり、

あるいは本居宣長になって、
仏教を排除した日本神道の流れが、最後には国家神道の台頭へと
結実します。

 

つまり、こういう事を言っている枠組み自身が、

国民国家としての日本という、

《近代》という枠組みの「日本」を基準にしています。


しかし明治以降の日本人が信じる「日本」は、

明治以前には無かったのです。


たとえば、今もそうですが、

「イタリア」というものは無いと言われます。

あるのは「ナポリ人」というような都市国家の人間と、

そして「ラティーノ」というラテン共同体の枠組みです。


同様の事はアメリカのスパニッシュの人びとにも言えて、

アメリカのラテン系テレビを見ていると、

国家としてのアメリカ合衆国は消えていて、

ラテン・インターナショナリズムの世界であって、

ニューヨークの次はコロンビアが写り、メキシコになり、

続いてドミニカ共和国のメレンゲの演奏になるのです。


人類そのものが、アフリカ類人猿に出自を持つという意味で、

実は「日本」を無くする事ができるのです。

一度は、「日本」を消してみる必要があるのです。


私自身は、全人類の歴史の中に自分自身を位置づけて考えます。

国民国家としての日本を、一度カッコに入れて消してみて、

考える立場です。


そして再度、近代以前の日本を再評価して、

全人類歴史の中に、「日本」を再度位置づけて見直す立場です。


東洋と西洋の区分をしても良いですが、

しかし過大にその差を意識するのは、

岡倉天心みたいで、今更と言う気がします。


つまり《近代》の西欧列強という、

帝国主義時代の枠組みで意味を持った「東洋」という言葉を、

今のグローバルな時代の中で言っても、古くさく感じるのです。


1980年代以降、世界は根本的に変わったのであり、

それを示すのは食事に代表される世界の変化です。

寿司は、もはや和食ではなくて、グローバル・フードなのです。


日本人は、コンピューターを作っていないし、

OSもすべて輸入品だといって、

それにこだわっている暇はないという思いがあります。


世界はグローバリズムの中で、食べる次元から、

根本的に変わったのであって、


「日本」とか、「西洋」とかいう言葉も、

もう一度、枠組みからの変化の中で洗い直す必要があるのです。


西洋美術は、実は1945年以降の歴史の中で、

芸術的には、極めて低いのです。


1945年以降のアメリカ美術の芸術的な高さを、

実は日本人の多くが見ていないし、見る機会も無かったし、

そしてそういう事実は知りたく無いと思っているのです。


さらには1975年以降の現代アートの多くは、

芸術的には終わってしまって、

アメリカ美術も劣化します。


少数の例外以外は、ひどいものになっているのです。

それは1991年以降、さらにひどくなって、

芸術は、地下にもぐり、

芸術や知性の劣化したひどい形骸文化が、情報化社会の、

初期20年を支配したのです。


それが、先日のアートフェア東京で完成したと言える

キッチュな美術状況です。


それはしかし、人間という存在の中では、

ある意味で普遍的な低さなのです。


人間の多くは低い存在なのです。

この人間の低さを見つめる事から、目をそらしてはいけないのです。


だからこそ、高みを見つめる必要があります。


現在もなお、実は今日の情報化文明に中には、

高度の知性と、高度な食事をつくるレストランと、

高度な演劇の舞台と、高度なコンサートホールは、

生き続けているのです。


同時にサイゼリアのようなレストランもあるのです。

アートフェア東京は、アート界のサイゼリアなのです。


さすがにサイゼリアには行かなくなりましたから、

いつか、アートフェア東京にも、行かなくなるでしょう。


結論を言えば、

今日の状況は、情報革命による変動が第一であって、

それを別の古い用語に結論として落とし込む事は、なるべく避けたいのです。


今の日本が悪いのは、

情報革命に背をむける人が多いことです。


【続きは下記をクリックして下さい】


◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆


雪舟展が上野の東京国立博物館で開かれたときに、

たくさんの地方のおばあさん、お祖父さんが東京国立博物館を

埋めました。これには驚きがありました。


阿修羅展にも、多くの日本人が集まりました。


京都国立博物館で開催された狩野永徳展も、すごい人出で、

道路が渋滞して、タクシーで行った私は、驚きました。


これら雪舟や永徳の絵画や、阿修羅像を見もしないで、

日本に美術が無いなどということは、

正当性を欠いた戯言にすぎません。


日本には《超一流》の美術が数多くあって、

芸術的には、人類史上希有のすぐれた芸術を有する民族なのです。


グローバリズムの中で、人類美術史をきちんと学び、

《超一流》の日本美術を、きちんと鑑賞する事が重要なのです。

美術は西欧のものではなくて、日本のものなのです。



nice!(3) 
共通テーマ:アート

nice! 3

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。