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大衆普遍主義 [アート論]

糸崎公朗さんへのご返事です。

糸崎さんの思考の中には、
オルテガが言った大衆と言うか、
大衆普遍主義とも言うべきものがあって、
考えさせられます。


ずいぶん時間が経ってしまいましたが返信です。


>糸崎公朗さんの、リカちゃん人形には、
>デシャンの作品に触発され、反発しつつ、にもかかわらず模倣し、
>なぞりつつ解体し、 伝統的な野蛮文化のボキャブラリーの中に還元し、
>あざ笑うことに表現を見いだしていくという、
>複雑な摂取と解体の 流れである「バサラ」を感じます。

ぼくとしては、デュシャン作品をあざ笑っているつもりはないのです。
「あざ笑う」というと、呉智英が「サヨク」とカタカナ表記して揶揄した「大衆化した左翼思想」を想起させますが、それは彦坂さんのおっしゃる「バサラ」なのかも知れません。
しかしぼく自身は、それとは違うつもりでいるのです。

違うつもりでいらっしゃるというのも、感じられる事は
感じます。
なぜに、糸崎公朗さんや、辻 惟雄さんがひかれるのだろうか?
と考えていった時に、
ある種の共通性があるからではないかと考えます。

すでに指摘しましたが、
デュシャンを考えるのなら、聖地であるフィラデルフィア美術館に行く
しかないのですね。これには代用品がないのです。
しかし、たぶん『奇想の系譜』を書いた辻 惟雄さんも、
行っていないのではないでしょうか。

糸崎さんにしても、一生フィラデルフィア美術館には
デュシャンを見には
行かないのだろうと、かってに思っています。

それは糸崎さんにしても、辻さんにしても、
大衆普遍主義とも言うべき感覚があって、
認識のために必要な手続きをとらなくても良いという、
そういう普遍主義をもっておられるように思えるからです。

それはしかし、ご本人の気持ちや、具体性で申しあげている
のではなくて、
ある種の偏見で申しあげているだけで、
正当性のあるものではありません。

言いたいのは、たとえば藤枝 晃雄氏に、私が共感するのは、
まず、デュシャンにあこがれてアメリカに渡って、
そして失望しておられる事です。
デュシャンを見るという事は、こういう事なのです。
だからフィラデルフィア美術館という聖地に行かなければ
分からない事があるのです。

>私 自身は、こういう「バサラ」の系譜作品を多く見て来ているので、
>正 直に言って、「またか」と思ったのです。
>つまり、外国の高度な作品を、摸倣しつつおとしめて、
>低 俗な自分たちの文化に基礎づけて行く系譜なのです。

「またか」と言われると、少なくともモダンアートとしてはお終いなので、ここでぼくは反論しなくてはなりません・・・

・・・という具合に書きかけて、この調子で書いても結局は対話は双方かみ合わず、空転してしまうだろうなと思い、いろいろ考えてました。
それでたまたま読んでいた『ブッダのことば スッタニパータ』(岩波文庫)に、「論争は良くない」というようなことが書かれてまして(第四、八つの詩句の章)、少なくとも「論争しないで対話を成立する必要がある」と気づいたのです。
つまり、ぼくがこの場で彦坂さんに反論し、つまり「論争」を仕掛けてしまっては「対話」が成立しないわけです。

おっしゃっていることは、分かります。
単なる論争で、お互いの正当化を主張しても、意味は無いでしょう。
前に西尾康之の絵について論争をしましたが、
私自身は、今も西尾康之の絵画は『ペンキ絵』であると思っています。
問題なのは、彼の作品を良いと考える糸崎さん的な絵画志向が、
大衆普遍主義とも言うべき、地平を持っている事です。

《大衆普遍主義》、あるいは《凡庸普遍主義》とも言うべき
感覚や確信が、日本中を浸しているのです。
だから日本は沈没するのです。
いっそのこと、世界最大の財政破綻を起こして、
この凡庸普遍主義の責任を、大衆自らが取る事態に成った方が
良いのかもしれません。
これは、彦坂さんが前回の記事の返信で書かれた「分かる」と「反省」の違いとも関連するかもしれません。
つまり論争とは、双方が自分が「分かる」ことばで語る(考える)と言うことで、それはつまり「自分の正しさ」に固執すると言うことです。
これに対し「自分の正しさ」に固執しなければ、それは「外部(他者)」に開かれると言うことで、だから「反省」という態度になるのかもしれません。
彦坂さんとの「対話」においては、ぼくは彦坂さんのおっしゃる「芸術」や「ハイアート」の意味が分からないのですから、その点を「反省」しなければいけません。
「バサラ」という指摘に対して、その対概念となる「ハイアート」を理解しないまま「自分の分かることば」で反論しても、議論は空転するだけでしょう。

ぼくとしてはまず、自分のアートについて「彦坂さんのことば」で語っていただいたことに感謝しなければいけません。
ぼくはどうも「自分の正しさ」に固執する傾向がありましたので、そうなると自分のアートについて「自分のことば」のみで語る(考える)ことになります。
しかし最近は反省し、積極的に「外部」(と認識していた人たち)とコンタクトするようになり、それで彦坂さんをはじめ、いろんなアーティストや写真家から話を聞くように心がけてます。
ただ、他人の話を聞いたり対話したりすることは案外難しく、いろいろ試してる最中なのです。

>しかし《ローアート》で良いの ではないかと思います。

「スッタニパータ」には「自己に執着するな」というように書かれてますが、それは必ずしも自己否定を意味しないので、その意味でぼくも自分の「ローアート」であることの利点は否定はしません。
しかしたとえば、

>昨年11月最初に本島で催した展覧会「復元フォトモ糸崎公朗展 と蔵元秀彦展での
>本島の観客の反応を見て 頭を抱えた時のことを思い出す。
>本島のお年寄りから現代アートは難しいといわれるのは まあいいとして
>糸崎さんのフォトモについて、ほとんどの人がこれはいいと直接の反応を示した。
>その反応を期待して、選んだことだが、苦さを感じた。
>見え透いていて自分に吐き気がした。
http://setouchia8.ashita-sanuki.jp/d2010-03.html

という意見もあることもまた「客観的事実」として認識しなければならないわけです。
アルテさんには期待に添えず契約解除となった経緯がありますが、それだけにこのブログには正直な気持ちがあらわれて、貴重でありがたいものです。

>これは余計な話です。
>《ハイアート》の視点で言うと、
>糸崎公朗さんの作品を金属板で制作したくなります。
>現在の紙ですと楽ですが、しかし《ハイアート》と は言えません。
>金属で作るのです。
>しかし、実際にはたいへんです。

これは具体的なアドバイスで、ありがとうございました。
現在は水圧で金属をカットする技術もあるようなので、不可能ではないはずです。 
by 糸崎 (2010-03-26 10:55)  


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