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新国立美術館での斉藤ちさと(改題1加筆4画像追加) [アート論]

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《世間体のアート》ということを、かなり真剣に考えていますが、
いろいろ観測して分かってくるのですが、
分かってくる事を書こうとすると、学問として書くことになります。

つまり《世間体のアート》を世間的に書こうとすると、
特に書く事が無くなるのです。

現在開かれている国立新美術館の

アーティスト・ファイル2010
―現代の作家たち

というのも、世間を基準に見れば、立派な展覧会です。
何しろ国立美術館が開く現代アート展ですから、
今様の「官展」なのです。

官展というのは、政府主導の美術展という事です。

文展・帝展・新文展・日展と展開してきたいわゆる「官展」の歴史
ですが、
近代の日本美術の流れをいろんな意味で作ってきたのは事実です。

そして情報化社会の今日では、
新国立美術館が、もしかすると新官展の位置を占めたのかも
しれません。


新官展の時代が、現代アートなのだと言えます。
つまり現代アートの官展化という状況が、
今日の美術界なのです。

正直言って、おまり面白く無い穏健な作品が並んでいましたが、
官展の作品だと思えば、納得がいきます。

出品している齋藤ちさとさんも、良い展示で、
新官展作家として、立派で良かったと思います。

学芸員の方にも知り合いがいるので、
立派な展覧会だと申しあげました。

しかし学芸員=学者という規定で、学問という視点から見ると、
あまり作家研究が学問的に厳密になされていなくて、
疑問を感じます。

斉藤ちさとさんの作品も展示も、世間的にはよくても、
専門家としても眼で見ると、多くの疑問を感じました。

つまり大きな違いは、
彦坂的に言えば《世間体のアート》と
《原芸術》の2つの視点があって、
今日では美術館も《世間体のアート》的な考え方だけになって来ている
という事です。
現代アートというものが官展作家になったのですから、
《世間体のアート》であるのは、当然だとも言えます。

斉藤ちさとさんの作品で、一番疑問に思ったのは、
泡のアニメーションの作品です。
これは府中美術館で最初の発表がなされているのですが、
府中で見た時とは格段に作品が悪くなっています。
その原因は、英文のタイトルを付けたからですが、
これによって、見ている人間の意識を切ってしまって、
作品として、圧倒的につまらなくなった。

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もちろんタイトルがついて、《世間体のアート》としては
形式が取れて、しかも英語で日本人にはストレートには理解
出来ない事が書いてあって、世間体は取れているのです。
こうした小賢しさが、前のアニメーションにあった自由な感覚を
殺してしまっていたのです。

我田引水でしかありませんが、
気体分子ギャラリーでの作品が、鑑賞構造をもった《超一流》の
すぐれた作品でした。

けっこう深い斉藤ちさとさんの作品構造が、今回見えてしまった
のですが、
たしかに《漠然とした純粋さ》のようなものが、
斉藤ちさとの作品にはあるのですが、その純粋さは、
古いモダンアートの《純粋芸術》であったということです。

まず、作家主体が、古い近代個人主義のアーティスト観でできている。
だから、この国立新美術館のような大きな空間での展示をコントロール
するためのスッタフグループを形成できなかった。
今日の作家は、建築家と同様に実はグループで動いているのであって、
単独でジェフクーンズも、ダミアン・ハーストも、
村上隆もいないのです。
奈良美智ですらがクリエイター集団「graf」と共同作業をしているのに、
斉藤ちさとさんは、一人で単独のアーティストとして活動しなければ
駄目だという主張をなさっている。

斉藤ちさとさんを最初に評価して、5メートルにも及ぶ(?)大作を
買ったのは、
ジョニー・ウオーカーさんです。
そのジョニー・ウオーカーさんが企画した美術展を、斉藤ちさとは
拒絶しています。
自分を評価する人間を排除するという欲動が、作家としての最初に
あるのです。
斉藤ちさとの心的基底に、他者排除の欲望が存在しているのです。
この他者排除の心的機械が、斉藤ちさとの中で作動し続けているのです。
それは本人もそのように発言しているという事です。
古いモダニズムのアーティスト像なのです。
だから今回の巨大美術館の展示でも、
自分のスタッフを組み上げるチームプレーが出来ない。

まあ、もったなかったと思いますが、
しかし《世間体のアート》的には、立派なアニメーションであり、
立派な展示で、《世間体のアート》としては及第点を取っています。
全体も立派な展覧会ですから、良いのだろうと思います。

何をもって良しとするかは、実は人によって違うのであって、
それは各自の自由であるだろうと思います。
近代個人主義を生きるのも、勝手な話です。それで良いのです。
アニメーションを改悪するのも、勝手な話で、斉藤ちさとの自由なのです。
ですから私の言っているのは、あくまでも彦坂尚嘉の私見であって、
私のかってな意見なのです。

私なら、タイトルを付けないで、エンドレスで上映することを
勧めるというだけです。
それが府中美術館での良さであったのです。
斉藤ちさとは、初心を忘れたのです。

そう、人間は初心を忘れるものなのです。

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ふしぎちゃん

幼児は、最初に出会う象徴的他者(多くの場合、その両親)の欲望が、一体どんなものであるのか?を、あれやこれやと四六時中考えているものなのだと、精神分析は言います。
「パパは私がどんな子だと本当に嬉しいのだろうか?」
この問いは、長じたのちにも両親以外の誰かに対象を換え、例えば恋人に対し「彼は、今日の私の服装が気に入っただろうか?」と思いをめぐらせる。
あるいは具体的な誰か、ではなくても、公の場で自分がどのように見られているか(=世間体)、ということをしきりに気にしたりということもある。
多かれ少なかれ、誰しもがこのように他者の欲望を気にかけて社会生活を営んでいますが、このことが当人にとって過大な苦痛を与えるほどになると、なんらかの症状としての形が表に現われてくることにもなる。
多くの場合の否定の形式は「抑圧」であり、他の二つが「排除」と「否認」。
よく、他者の排除と言いますが、それはおそらく抑圧のことを誇張して言う時に使われるのだと思います。実際には、排除などはしていない例がほとんどなのです。
モダンアートは(ア−ティストは)他者を排除している、という慣用句も、実は誤りで、抑圧という形式で考える(考え直す)べきものと思われます。

by ふしぎちゃん (2010-03-06 02:58) 

ヒコ

ふしぎちゃん様
コメントありがとうございます。
しかしおっしゃっていることは、具体的に観測されて来ているのですか?
例えば奥山民枝という作家がいます。彼女は、ギャラリー77で多くの展覧会をして、オーナーの遠藤さんにはご恩があります。しかし今日の奥山民枝のカタログからは、ギャラリー77の名前は、完全に削除されています。
野村仁という作家がいます。私が紹介してギャラリー手で、個展をなんどもしています。野村仁が新国立美術館で、大規模な作品展を開いた時のカタログからは、このギャラリー手の名前は完全に削除されています。
諏訪直樹という作家がいます。Bゼミ出身で、彦坂尚嘉がデビューさせて支援した作家です。コバヤシ画廊が昭和道路沿いにあった時代の個展作品には、彦坂尚嘉の影響が出ています。デビュー時期の『みずえ』という雑誌でのインタビューの発言の多くは彦坂尚嘉の強い影響が見られます。しかし諏訪直樹の作品集には、彦坂尚嘉の名前は完全に削除されています。
まだまだ、具体的な例をあげられますが、こうした具体例は実はたくさんあります。特に多くの画廊さんは、苦い目に合っています。
 こうした事例は、本来は美術史家や学芸員の作家研究で、作家の嘘は見破れるものなのですが、現在の日本では、こうした作業がされないのです。むしろ美術史家や学芸員自体が学問の厳密性をうしなって、作家の嘘の上塗りをする《世間体のアート》の擁護者に成り下がっているのです。
 アメリカの美術史というのは、事実を追求する厳密性が、日本よりははるかに強いものです。とは言っても、《世間体のアート》的な神話性から、完全に自由というものではありませんが、それでもはるかに学問として立派なのです。日本はひどいのです。だから作家も嘘をつくことに積極的だと言えます。

by ヒコ (2010-03-06 10:44) 

ふしぎちゃん

具体的にということですが、たとえばアーティスト同士が集まると、所属するギャラリーオーナーの悪口の一つや二つは必ず出る、という情景があることを私は知っています。そうした現場に居合わせた経験が何度もあるということだけでなく、アーティスト自身が「作家が集まると画廊主や画廊スタッフへの悪口は必ず出ますよね。」と口にします。私の知る範囲では、30代以下の若い作家、特に有名ギャラリーに所属する人にそういう傾向が強くあるように感じられます。要するに、画廊主に対するなんらかの不満があったとしても、それを本人に直接にぶつけることは極力避け、横の関係、つまり市場での競争相手である他の作家(=想像的他者)同士で愚痴を言い合い解消しようという傾向。これは、主婦の井戸端会議に似たものだと思いますが、解決できない対立の深みにはまることよりも、とりあえずの関係を保持するという利を取るという態度の表れではないかと思います。
しかし関係自体を解消しようという場合、具体的には画廊を移籍するという時に、その原因に何らかの対立関係(お互いの利害の対立・または思想的対立)があったということは、おっしゃるように日本の場合世間体の観点からそれを隠そうとする傾向はあるように思います。
思想的対立が顕在化するところにこそ、真の生産性が潜んでいるのだと思いますが、現実にはそうなっていません。

しかし、語の定義として、そこにあるのは抑圧なのであり、排除ではありません。ここを間違うと、問題がむしろ曖昧化します。陰で悪口を言うということは、排除していない(排除できていない)ということです。

想像的他者同士の関係とは、お互いに利用し合っているということを分かり合っているという、言わば見え透いた関係。透視的関係。主体にとって象徴的他者との関係は、不透明な関係です。
私の考えでは、作家と画廊主がお互いの利害なりなんなりの欲望が見え透いた関係では、成立しません、既に崩壊しています。
by ふしぎちゃん (2010-03-06 13:10) 

ヒコ

ふしぎちゃん様
コメントありがとうございます。
ご意見はわかりました。ご自身の主張は、それはそれで良いと思います。
私の依拠しているのは心理学や、精神分析なので、それが正しいか間違っているかはともかく、このブログでこの議論を始めたのは自己愛性人格障害の無差別殺人の事例からなのです。
医学的に他者排除の事例は観察されています。
私の観察でも、行く例も見られています。そのこととふしぎちゃんの観察結果がちがうのは、観測者が違うと、同じものを見ても判断が違ってくるのです。
ですから、それは仕方がないのだろうと私は思います。
by ヒコ (2010-03-08 08:23) 

ふしぎちゃん

彦坂様
返信をありがとうございます。
私も考えの多くを精神分析(フロイト、ラカン、加えてジジェク)に依拠しているので、精神分析の捉え方の違いということになりましょうか。
他者排除を精神病の否定の形式として考えているのは、ラカン派精神分析であり、私が読んだフィンクの臨床論には、精神病を緩和したり治すことができる、つまり父性機能が根付かなかった患者にそれを植え付けることができるとラカンが考えたわけではない、とありますので、そもそも象徴機能が働いていない精神病患者に批判言語(私の使う比喩で言えば、父性的な言葉の鉄槌)は無効などころか、症状を悪化させる理由にもなり危険であるということです。
また、精神病の特徴の一つとして、新たな隠喩を創造できないということがあります。たとえばF・カフカの短編に父親から「死んでしまえ」と言われてそのまま川に飛び込んで死んでしまう主人公の話があります。そのようなことが現実にあるとすれば、それはラカンによれば本質的な隠喩、すなわち父性隠喩の不全によるものであるとされる、ということです。
つまり、ラカンの思想に依拠するならば、他者排除を断ずる対象に批判言語というのは、無効であるということになるのだと思います。
それ(とりわけ豊かな隠喩を含んだ)が有効であるのは、「抑圧」を否定の形式として持つとされる、もっぱら神経症者であるというのが私の主張でした。

モダンアートを精神病(または自己愛性人格障害)の文脈ではなく、神経症の文脈で捉えるならば、教会などの権威や貴族などのパトロンからの芸術家の自立・自律というかつてのモダンな運動の総体の意味が、よりよく分かってくる筈だと思うのです。
写真資料でしか存じ上げませんので恐縮ですが、彦坂様のかつてのバリケード封鎖の中での、透明なビニールシートを床に一枚敷いた作品は私は最も好きで、モダンな運動の極東の地における最後の美しい作品として私は感じています。これ以降時代が変わった(あるいは終わった)、と美術史全体を見てもいいのではないかと思います。
私は体験していませんが、学生運動というものも、精神病ではなく神経症の文脈で解釈するべきだと私は考えていて、権力や制度のあり方に敏感に反応するというは、当時の女性運動も含めて、神経症の一分類の「ヒステリー」の文脈で考えると、より明瞭に見えてくる筈なのだと思います。

そして、私の最大の関心事は、ヒステリーを感性を敏感に保つという意味で肯定的に捉えていた筈のラカンが(「ヒステリー化」という言葉はラカンだったと思います。)、何故パリの学生に対して支持を表明しなかったどころか、ヒステリー(=権威に依存しつつ権威に抗う)を理由に批判し切り捨てたのかということ。この点について、彦坂様のご意見が、もしうかがえたら幸いに存じます。

最後になりますが、モダンアートの始まりに際して、社会的権威からの自立・自律の運動という側面以上に、私が関心があるのは写真機械(という他者)の登場ということが、美術にとっていかなる存在であったのか?ということです。
私の考えは、やはりこれに関しても彦坂様とは異なり排除ではなく、抑圧にまつわる存在なのではないかと考えていて、つまり写真機械は近代芸術にとっての抑圧された存在、または抑圧する存在であった、あり続けたのではないかと。
現在は写真はデジタル化を経て、液晶、プラズマディスプレイ時代に移行しつつありますが、これらが芸術存在に対してどのような意味を持つ存在になってゆくのかが、またさらなる最大の関心事でありつつあります。

長文、大変失礼しました。
by ふしぎちゃん (2010-03-09 14:50) 

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