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ルーカスの死 [日記]

長く飼っていたラブらドールのルーカスが、

1月15日に死んだ。

この日は実はギャラリー山口の山口光子さんが亡くなった日でもあって、

ちょっとブログに書く気にならなかった。

ルーカスの晩年は、遺伝病で後ろ足2本がだめになって、

しかも一本を自分でかじる習慣がついてしまって、

介護はかなり大変だった。

普通は安楽死をさせる状態だったのですが、

目がしっかりしていて、生きる意欲はあって、

食欲も衰えなかったので、医者とも相談して、

安楽死は先延ばしをした。

後ろ足2本だめと言う不自由な足で、前足2本だけの力で、

後半身を引きずって

驚くべきもかなりのスピードで遠距離を移動した。

油断すると道路に出てしまって、

近所の人が通報するので、3回警察が来るという騒ぎになった。

 

足をかむ癖が出来て、いろいろなことをしたが、止められなかった。

首にカラーをしても、最初は良いのだが、そのうちにカラーを超えて、

首を出して、後ろ足をかじって、ついには骨まで出てきてしまった。

医者に連れて行って、短期入院させて、一度はなおったのだが、

また同じことを繰り返す。

麻痺しているので、かじっても痛くないようで、

かじるのを止めるために、ガムテープでカラーの前をがんじがらめにして、

鉄仮面のようにすると、しばらくは良かったのだが、

なにしろ頭も良くて鉄仮面を突破する方法を、

根気良く編み出してしまう。

そこで私の長靴を後ろ足にはかせるという方法をとった。

これもしばっらくは良かったが、いつのまにか脱ぐコツを覚えてしまって、

最後は、この長靴を脱いで、足を噛んで、動脈を切って、

血が水道の蛇口柄出るように流れでて、血の池をつくった。

気が付いたときは手遅れで、止血はしたけれども、

急速に意識を失って、眠るように死んだ。

自殺と言うべきかどうかは判断が難しいけれども、

とにかくこの1月15日は、二人の知人が亡くなったのです。

死者というのは、亡くなって無くなるのですが、しかし記憶の中では生きていて、

繰り返し思い出されてくる。

人間は死者と一緒に生きていくのであって、

死んだら御仕舞いというものではない。

祖母も、母も、義父も、そして私の長男も死んだが、

しかし私は彼らと一緒に生きているのであって、

無ではないのです。

ルーカスのことも、山口光子さんのことも繰り返し思い出しています。


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コメント 4

梅谷です

ルーカスとの日々壮絶な介護の日々だったのですね。

思い出してくれる人が無くなったときに、存在は消えてゆくのですね。
私も亡くなった祖父や祖母や父のことを思い出したり、語るとき、彼らは
まだ存在しています。私が死んだとき、彼らは本当に消えてしますのだと
思っています。

心よりお悔やみ申し上げます。
by 梅谷です (2010-02-20 20:04) 

ヒコ

梅谷様
お悔やみをいただき感謝します。
私自身は、私が死んでも、死者たちが消えるとは思っていないのです。
私の禅宗に対する評価が厳しいのは、《現実界》に於ける思考というのは、《想像界》《象徴界》の存在を無視する事に力点が置かれ過ぎているからです。

聖書には次のようにあります。

マタイによる福音書

第一章

アブラハムの子であるダビデの子、イエス・キリストの系図。

アブラハムはイサクの父であり、イサクはヤコブの父、ヤコブはユダとその兄弟たちとの父、

ユダはタマルによるパレスとザラとの父、パレスはエスロンの父、エスロンはアラムの父、

アラムはアミナダブの父、アミナダブはナアソンの父、ナアソンはサルモンの父、

サルモンはラハブによるポアズの父、ポアズはルツによるオベデの父、オベデはエッサイの父、

エッサイはダビデ王の父であった。ダビデはウリヤの妻によるソロモンの父であり、

ソロモンはレハベアムの父、レハベアムはアビヤの父、アビヤはアサの父、

アサはヨサパテの父、ヨサパテはヨラムの父、ヨラムはウジヤの父、

ウジヤはヨタムの父、ヨタムはアハズの父、アハズはヒゼキアの父、

ヒゼキアはマナセの父、マナセはアモンの父、アモンはヨシヤの父、

ヨシヤはバビロンへ移されたころ、エコニヤとその兄弟たちとの父となった。

バビロンへ移されたのち、エコニヤはサラテルの父となった。サラテルはゾロバベルの父、

ゾロバベルはアビウデの父、アビウデはエリヤキムの父、エリヤキムはアゾルの父、

アゾルはサドクの父、サドクはアキムの父、アキムはエリウデの父、

エリウデはエレアザルの父、エレアザルはマタンの父、マタンはヤコブの父、

ヤコブはマリヤの夫ヨセフの父であった。このマリヤからキリストといわれるイエスがお生れになった。

だから、アブラハムからダビデまでの代は合わせて十四代、ダビデからバビロンへ移されるまでは十四代、そして、バビロンへ移されてからキリストまでは十四代である。

◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆
内村鑑三は、聖書研究の中で、こうした系譜学的思考を、高く評価しています。

私も系譜学的思考をとるものです。だから私は歴史家であり、遡行する事に情熱を持つのです。

消えるというふうには、考えないと言えます。

たとえば、国際的な美術展に参加すると、消防法が強い事に驚きます。何故なのか?
火事で、多くの人が、無念の思いで焼け死んで行ったからです。多くの人の犠牲の上で、消防法ができているから、消防法は、強い法律なのです。

それは法だけではなくて、
全ての存在が、多くの無念の死の上に築かれているからです。それは屠殺場で殺されて行く牛や豚までも含めて、これらの死の上で、人びとは生きて行きます。

生物の弱肉強食の食物連鎖自体が、こうした死の連鎖の上に築かれています。
だから地球上には5回にわたる大絶滅があったのです。最下層の弱者を滅ぼすと、食物連鎖の梯子の土台が崩れるので、大崩壊が起きます。

今の日本に起きているのは、大崩壊なのです。
その崩壊を引き起こしているのは、弱者を死に追いやっている故に起きる社会基盤の最下部の崩壊です。

全てのものの存在と死には意味があって、クモの巣のように連鎖しています。何らかの系譜があって、それは中国の大地の上で飛ぶ蝶の羽の動きが、台風に増幅されて、カルホルニアを襲うような連鎖なのです。

それ故に、無は、存在しません。

あるものは、この宇宙のすべてのものの連鎖と系譜の総体なのです。この全てのものを受け入れて生きる事。
by ヒコ (2010-02-21 02:09) 

symplexus

ルーカス君との闘病の日々のこと,初めてお聞きし
あらためて厳粛な気持ちとなりました.
 一つの親しい命が目の前から消えていくということに重ねて,
去り行く動物達が投げかける謎が重くのしかかるのでしょうか,
まるで日没後の残照のように赤々と想いが燃え盛って
心の平静をそれが許してくれません.
自分でも制御出来ない苦しみの中にあったルーカス君のいらだちに
深い悲しみを感じましたが,これはまた
自分も共有する限界の感覚でもあります.

去り行く者から引き継いだ課題が生者を動かすとしたのは
詩人リルケだったと思うのですが,そのリルケは「悲歌」第八歌で
”私たちはいつも被造の世界に向いていて,
ただそこに自由な世界の反映を見ているだけだ,
しかも私たち自身の影でうすぐらくなっている反映を.
または,物いわぬ動物が
私たちを見あげるとき,その眼は静かに私たちをつらぬいている”
と歌いました.
だからこそ動物達の沈黙と並列的にある我々は
言葉を持つ異質の存在として,
動物達も含めた沈黙;
死者と死者が残した遺産という沈黙を背負いながら,
神が愛いするかも不確かな人間を生きなければならないのでしょう.

継承と歴史の連続性を生きる宣言,
決意と確信のブログを拝見し,今
深く,激しく共感しております.
by symplexus (2010-02-23 17:42) 

ヒコ

symplexus様
コメントありがとうございます。
リルケの『時祷詩集(Das Stunden-Buch、1905年)』が好きで、学生時代ですが、繰り返し読んでいました。久しぶりのリルケの名前を聞いて、また読んでみたくなりました。
by ヒコ (2010-02-27 02:05) 

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