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メタル放送大学に対する五十嵐太郎氏の批判 [建築系美術ラジオ]

普段は温厚な五十嵐太郎さんが、
珍しく、先日のメタル放送大学の不手際を批判なさっている。
彦坂の視点を補足しながら、読んでいただければと思います。

*そのまま東京に移動し、横浜のZAIMにて、深夜からメタル放送大学に出演。
・が、ありえないほどの段どりの悪さに、途中から帰りたくなった。しかし、あいにく電車は動いていない。6時過ぎに解放された。下記に問題点を挙げますので、今後、参考にしてください。

五十嵐太郎さんは天才的なキュレター/プロデューサーです。

日本のシンポジウムのやり方の悪さを対象化して、それを乗り越えるシステムを

作って来ておられるのです。

それがリノベーション・スタディーズであり、

このシステムを受け継いだのが、アートスタディーズです。


まあ、五十嵐さんのご批判は正当ですが、メタル放送大学を実行した危口統之さんと

比較するのは無理です。


危口統之さんは、自分がシンポジウムを実行するのに夢中で、他人のシンポジウムを
いくつも見て、日本のシンポジウムのやり方の欠点を対象化して、陥りやすい欠点を
修正して、面白くする方法について考えるというようなプロの企画者の視点が無いのです。

・イベントに決定的に欠けていたのは、せっかく呼んだゲストから話をきこうという(当たり前の)態度だった。最初の紹介もごくわずか。そもそも、あまりしゃべるなと言われた。リスナーにとっても、出演者のキャラや立ち位置がわからない状態で始めるのは、とても不親切な番組になってしまう。

異質な複数のゲストを呼んで、その人びとの話を引き出して、複数の頭脳と複数の思考パターンが隣合っていることの面白さを、引き出すと言う、シンポジウムの妙味を作り出す事において、五十嵐太郎氏は、傑出しているのです。

5月7日に朝日新聞社出版から出版される『空想 皇居美術館』という本に収録されている新宿のオゾンでのシンポジウムは、政治評論家の御厨貴、歴史家の原武史、そして右翼の一水会の鈴木邦男の諸氏と、建築家の新堀学、そして彦坂尚嘉をからめたもので、圧倒的な面白いシンポジウムでした。

仙台で行われたカルチャータイフーンでの五十嵐太郎企画のアートスタディーズも、極めて面白いもので、これも本になって出版される予定で、作業が進んでいます。

・パネリストのぢゅんさんはキャリーバックいっぱいにアイテムを用意してたのに、紹介する機会なし。途中から本題と関係なく、隣のむっちーさんと別のはなしをしてた。僕も寄稿したハードロック関係の本数冊用意したけど、紹介する機会がなかった。藤原さんもせっかく駆けつけたのに、置いてかれた。

メタル放送大学を実行した危口統之さんは、どこかで《自己愛》性人格障害的なところがあって、他人を見つめる視野に欠けているんだろうと、思われます。
他者というものが持っている豊かさに、危口統之さんの目が向いていないのです。人間というものは、80%以上の時間が、自分の事しか考えていないと言われますが、自分しか見ていない視野では、他人の存在が抜け落ちてしまいます。他人の良さや面白さに目を向ける事が、根本的にむずかしくするのが、ナルシズムの原理なのです。ナルシズムというのは、基本的には自己防御のシステムで、自分を守るために他者を排除するのです。

ナルシズムから脱却するためには、自分を守らないで、自分を一度殺す事が重要なのですが、この自己否定をすることが、多くの人に取ってはできないのです。「自分を捨てろ」という伝統的な教えが重要なのですが、これが危口統之さんにもできないのだろうと思います。


・例えば、80年代にアメリカに住み、ミュージシャンといろいろな交友があったぢゅんさん。僕が司会なら、彼女から当時のメタル関係のコミュニティについて聞く。活字になっていない、貴重な言葉が得られる。そこから80年代のアメリカのシーンを立体的に復元できる。なのに、あ~あ、もったいない。

清水(ぢゅん)さんは、いろいろのバンドのTシャツを持って来ていて、着替えをしてくれていたのだし、私もメガデスのTシャツをきたり、頑張ったゲストがいるのに、それには目がいかなかったのが危口統之さんでした。残念でありましたが、これは根本的な精神状態の問題で、根っこの深いところで、他者の存在を排除しているのですよ。それを直す事は、いまさらできないので、言っても始まらない事なのです



・僕は自分が司会をするとき、ミニマムにしゃべるのが成功だと思っている。なるべく多く、ゲストにしゃべってもらう。昨日は完全にその逆。6時間もあれば、どんなに少なくともパネリストが10分でも好きなようにしゃべれる時間をとるべき。というか、誰が司会なのか、はっきりもしてなかった。

彦坂尚嘉は、他人の話を良く聴く人ではありますが、しかし自分でもしゃべってしまう人なので、司会者としては良く無いです。アートスタディーズでも、自分のしゃべりが多過ぎると言う欠陥は頻発していますが、それでも何とか成立しているのは、五十嵐太郎さんのつくったシンポジウムのシステムが良いからです。

そういう意味で、メタル放送大学に欠けているのは、五十嵐太郎という存在なのです(笑)。五十嵐さんと、もう一人スラッシュメタルに詳しい人が組んでメタル放送大学を組み立てれば、面白いものになると思いますが、(笑)そういうこともできないでしょう。

・せめて80年代はこれをテーマ、90年代はこれをテーマという最低限の問題提起くらい、あらかじめ用意すべき(できれば、そのテーマとパネリストを関連させるのがよい)。よほど司会がうまく、話術にすぐれているのではないかぎり、完全なフリートークは危険すぎる。

危口さんも、実は1960年代、1970年代、80年代,90年代、2000年代と各時代のテーメを決めて進行しようとしたのですが、その時代ごとのゲストスピーカーを用意しなかったのが、まず、失敗でした。危口さん自分自身で、各時代を解説しようとしたために、構造が消えてしまった。各時代ごとに、別々の報告者を決めて、その時代の概略を述べてもらって、代表的な【YouTube画像】を見せて、そういう誰にでもわかる啓蒙的な番組をつくる必要があったのです。

・ただのDJ番組なら、この曲カッコいいでしょ、でしょでしょ、で共感を強制してかまわないけど、そうでないならば、可能なかぎり、なぜ良いのかを言語化しないと、討議にはならない。そして~が大好き、ということと、言語化する能力は必ずしも一致しない。ならば、せめて事前に準備をしておくべき。

私自身が驚いたのは、危口さん自身が、メタルをそれほど高く評価していなかった事です。様式美の娯楽音楽としか見ていないような発言が最初にあって、私はそれは違うと思いました。事前に勉強会をしっかりとやって、メタルなりラウドロックの意味を、しっかりと肯定的に評価する思想を作っておかないと、こういう企画は、根本的に無理なのです。

・10選の発表も、パネリストとメール投稿が等価な扱いだったが、(平等に扱う事は出席者に失礼だった。)時間がおしていることを考えれば、前者(パネリスト)はその場の発言を引き出し、後者(投稿者)はスクリーンに10選を映しだし、簡単なコメントで次に流すべき。
 深夜にわざわざ現場に来ている(ノーギャラの善意の出席者である)パネリスト4人の扱いが低すぎる。

10メール曲を選ぶ事は、一仕事なので、ゲストをノーギャラで呼んでいながら、その扱いが失礼だった事は、致命的と言えます。ノーギャラだから、話を聞く必要も無いと言う、そういう扱いなのです。

そういう意味でノーギャラのところには、出席してはいけないという実例であったと言えます。ゲストが、それぞれに仕事を持っていて、翌日も動かなければならないという、そういう基本的な部分が欠けている。他人の時間は、実は有料なのですね。実際、私は家賃もあるので、この時間も稼いでいないと、マズいのです。

そういう意味で、五十嵐太郎さんも彦坂尚嘉も、清水じゅんさんも、優しすぎたのです。やさしいだけでなくて、メタルをそれだけ愛していて、評価しているという結果の善意でした。しかし、やはりお金を最低限でも用意できない人は、社会的にマズい人なのですね。

ノーギャラで他人を呼ぶ人は、他人の存在を軽視していると、思った方が良いということが言えると思いました。
 
・そして大変につまらないことだが、僕が選んだ10曲はひとつもかけてくれなかった。ほかの10選からは、たとえメールでも、だいたいひとつは流したのに。主催者側のお好みの曲だけをかけるのは、他者の意見をきかない姿勢に通じる。自説の披露のために、装飾としてゲストを呼ぶのは失礼だと思う。

装飾として呼んだという扱いは事実であったのです。五十嵐さんの上げた曲を一曲もかけなかったのは、明らかにマズい事で、そういう他者への配慮のなさは、ミスであるという範囲を超えているのです。危口さんに限らす、自分も含めてですが、マズい人が、凄く増えているのです。

人を見ていく必要はあるのですね。危口さんにしても、努力で直る水準ではないので、五十嵐さんのやさしさを誤解している無配慮さは、おしまいというか、修復不可能なものです。

五十嵐さんは、アートスタディーズでも、建築系ラジオの活動でも、そして建築雑誌の編集活動でも、ボランティアで、多忙な中、非常に頑張って状況を変えようと努力なさっている文化人です。こういう善意に満ちたプロの文化人を、ないがしろにすると、まあ、罰があたるというか、まずいですね。

・実際、楽曲を流すと、その楽しさでなんとなく場はもってしまうのだが、それ「だけ」のイベントなら、前後が忙しいなか、僕は6+1時間も拘束されたくない。

パネリストがみな無償できているだけに、なおさら主催者だけの満足にならないよう、配慮をして欲しい。

・司会とは、ときに用意したものも捨てて、ゲストのはなしを展開すべきである。

そして客観的に場を読み、時間配分を考え、進行しなければならない。

自説の主張に固辞したり、そのためにフリーズしたりは、司会の役割ではない。

今後、イベントを考える学生は、反面教師として学んでください。

さて、そういうひどい司会の危口統之さんであったのだが、それでも私は、メタルミュージックについて考える機会を与えられて、面白かった。

椹木野衣さんが、10選の曲をあげていたが、これが古すぎて笑えた事も含めて、多くの人が、実は1991年以前を生きていて、実に後ろ向きにメタルミュージックを考えているという事も見えて、それも貴重な体験だった。

これからは、しばらく1990年代,2000年代、さらには2010年代の新しい音楽だけを、集中的に聞いてみようと思った。そういう中で、パンテラを全部聞いてみようとか思いだしたのです。とにかく、古い感性に逃げ込んでいる精神には、うんざりするのであって、今日の表現がどれほど不毛であっても、今の新しさを追いかけて見たいと、改めて思った次第です。


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真理子

彦坂様
こんばんは、真理子です。
やっとですが、美人論をすべて読みました。
私も美しい人は大好きです。なおかつ彦坂様の見解はものの見事にその美しさを言い表してあり、本当に面白いです。
今回コメントさせていただいたのは「椎名林檎」さんの顔を見ていただきたく思ったからです。
彼女もまた美しく、音楽家としての才能を持った女性だと、私は思っています。
彼女の面白い所は、見る度に顔が違って見えるという所です。
その様は「整形」とまで言われます。私はそのようには思いませんが。
女性というのはメイクによっていくらでも見た目を変えられるものですが、ここまで顕著に現れる方も珍しいかと思います。
よろしければぜひ、彦坂様の目に彼女の美しさはどう写るのか、そして彼女の魅力とはどのようなものなのか、お教えいただきたく思います。メイクによって「見る度に違うように見える顔」にはその都度違った見解がなされるかどうかという所にも非常に興味があります。
お忙しくされていることと思います、お暇がある際、気が向いたときで結構ですので、よろしくお願いいたします。
(今回も記事に関係のないコメントで申し訳ございません…)
by 真理子 (2010-02-16 21:11) 

ヒコ

真理子様
美人論を読んで下さってありがとうございます。
感謝です。
そしてリクエストもありがとうございます。
椎名林檎は、昔は好きであったので、美人論でも取り上げる事にしましょう。忘れたようだったら催促してください。
by ヒコ (2010-02-18 00:11) 

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