『アートの格付け』をコントラスト操作の比喩で見る(改題1改稿加筆3画像追加複数2) [アート論]
御説拝聴いたしました。
それでは奈良の6流の画像もPCによるコントラスト調整で、超一流になるのですね。
しかし、これはいくらなんでも単純化しすぎではないでしょうか?
図式的にすぎますので、読者を馬鹿にしていることになります。
わかりやすすぎてつまらない。
今後はもう少しわかりにくく解説してくださることを期待いたします。
オリジナル画像 奈良美智作品
《第6次元》
コントラストを11上げた改竄画像
コントラストを11上げてつくった改竄画像です。
この改竄は、あくまでも芸術を論じるための学問のためであって、
営利目的や、奈良美智氏の作品を、不当に卑しめるための犯罪行為ではありません。
あくまでも、芸術や美術の秘密を明らかにする芸術分析の作業であることを、
お断りして、奈良美智氏へのご理解を求めるものです。
さて、コントラストを11上げると、
原画の《第6次元 自然領域》という彦坂尚嘉責任の『アートの格付け』が、
《第1次元 社会的理性領域》の作品に変貌しました。
たかが、コントラストが少し変わっただけで、同じ奈良美智の作品
であって、何も変わらないと、考える方々は多いと思います。
無理もないことです。
芸術上では、この《第6次元》から《第1次元》への変化という事が、
極めて重要です。
奈良美智オリジナル《第6次元 自然領域》 《第1次元 社会的理性領域》
この2枚の画像を、同じで、差が無いと、感じる人々がいます。
多くの人は、実は微細な差を見分けられません。
こまかい差を見分けることが、才能であり、技術なのです。
つまり、こまかい差を見分けられる訓練というものが必要です。
自動車の運転を習うように、些細な変化を見えわける眼の訓練が
必要なのです。
「ひよこ」のオスとメスを見分けるような、眼のこまかさです。
眼のこまかさや、デリケートなものの見分けの問題は、
レオナルド・ダ・ヴィンチが提出しています。
レオナルド・ダ・ヴィンチの最初の絵画は、
先生のアンドレア・デル・ヴェロッキオと一緒に描いたものです。
先生よりも、デリケートさで圧倒して、
アンドレア・デル・ヴェロッキオはこれ以降筆を折っています。
つまりレオナルド・ダ・ヴィンチの才能のひとつは、
細かいデリケートさなのです。
ヴェロッキオ ダ・ヴィンチ
ですから私たちも、レオナルド・ダ・ヴィンチのように、
デリケートにものを、見分けなければなりません。
この2枚を見ても、同じに見える人というのは、
この画像を《外部》から見ているのです。
つまり違うイラストとの差から見てしまって、
2枚のコントラストの差だけの画像の意味の変化を見ることが出来ないのです。
この2枚の画像の差だけを見る《外部の眼》が、
彦坂尚嘉が言うところの《外部の眼=シニフィエ連鎖》です。
この2枚の違う画像の違いを見分ける眼が《外部の眼=シニフィエ連鎖》
それに対して、同じ画像の2枚のこまかい微細でデリケートな差を見分ける事を、
彦坂尚嘉的な意味での《内部の眼=シニフィアン連鎖》と言います。
この用法は、ラカンの使う「シニフィアン連鎖」とは違います。
そしてラカンは、彦坂が使う「シニフィエ連鎖」という言葉は、
使っていないはずです(ラカン文献学の専門家のご意見をお聞きしたく思います。)
この2枚の同じ画像の違いを見分ける眼が《内部の眼=シニフィアン連鎖》
つまり2枚の画像といった時に、
2枚の違う画像を見分ける《外部の眼=シニフィエ連鎖》と、
同じ画像の2枚の差を見分ける《内部の眼=シニフィアン連鎖》の2種類が
あります。
彦坂尚嘉の『アートの格付け』というのは、
実は、この微細な《内部の眼=シニフィアン連鎖》から、
深層構造のカースト制度のような階層構造を見て行こうと言う
ものなのです。
最近は、さらに
芸術の問題を、その内部から、さらに外部の眼までの関係を見ることを
試みています。
《外部の眼=シニフィエ連鎖》までも
とらえる努力をして来ているのです。
細かい分析をすると煩雑になっていくので、
今は、とりあえず、簡単に全体を見て行きます。
コントラストを21上げた画像
作品は《超次元》の《超1流》に変貌しました。
さて、コントラストを21上げると《超1流》《超次元》が
出現して来ます。
こういう単純なコントラストのアップによって、
変化を見ようとしている方法は、フロイトのストレス理論の単純さを、
見習っているところがあります。
つまりコントラストを上げるという事は、
あくまっでも比喩ですが、強いストレスの蓄積に
耐えられるという事です。
マラソン選手が、苦しみに耐えながら走る選手と
苦しみに耐えられないで脱落する選手がいますが、
苦しみに耐えられる選手が《格》の高い選手なのです。
《第6次元》 《第1次元》 《超次元》
多くの人にとっては、
少し変化した同じ画像があるだけであって、
それ以上の意味はないのだろうと思います。
些細な変化で、見分ける事もできないかもしれません。
ところが、彦坂尚嘉は、この違いを『アートの格付け』と考えて、
いるのです。
《第6次元 自然領域》
《第1次元 社会的理性領域》
《超次元 超越領域》
ところが、これ以上にストレス=コントラストを上げると、
倒錯して、《超次元》は、《第41次元 戦争領域》に反転してしまいます。
コントラストを41上げた画像
作品は《第41次元 戦争領域》に変貌しました。
しかも《第41次元》は、倒錯領域なのです。
奈良美智 オリジナル《第6次元》作品 彦坂によって改竄された《第41次元》作品
さらに、ストレス=コントラストを61上げると、
《形骸》領域が出現して来ます。
これは『アートの格付け』で言うと《第8次元 信仰領域》であります。
コントラストを61上げた画像
《形骸》
《第8次元 信仰領域》
つまり、コントラストを上げ過ぎると、
作品は《形骸》領域に達します。
それがしかも《第8次元 信仰領域》の作品となるのです。
オリジナル《第6次元 自然領域》 《形骸》/《第8次元 信仰領域》
この《形骸》である実例としては、草間弥生の肖像写真があります。
このドギツイ表出してくる感覚が《形骸》の《第8次元 信仰領域》
なのです。
新興宗教のような次元です。
これを奈良美智の改竄画像と比較してみます。
草間弥生 奈良美智の改竄画像
両方ともに《形骸》/《第8次元 信仰領域》
しかし、草間弥生の肖像写真には、別のタイプのものもあります。
《第6次元 自然領域》の草間弥生肖像写真
こちらの写真は《第6次元 自然領域》であって、
実像としての草間弥生に近いのです。
しかし今日の社会情勢の中では、《形骸》化させて、
キャラ化したほうが、社会的流通するのです。
《形骸》《第8次元 信仰領域》 自然《第6次元 自然領域》
《第6次元 自然領域》
《形骸》《第8次元 信仰領域》
先ほどの松山賢さんの例でも、《第8次元 信仰領域》が、
再制作で出現しましたが、
この場合には、コントラストを上げたのではありません。
再制作しただけです。
再制作と、ストレス=コントラストを上げすぎる場合という、
違う原因にも関わらず、《第8次元 信仰領域》が出現すると言う、
同じ状態に達するのです。
つまり再制作という自己摸倣は、ストレス=コントラストを
上げすぎるという現象を、どうも生んでいるらしいのです。
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コントラストを81上げた画像
作品は、《炎上》領域に達します。《第21次元》の作品です。
コントラストを81上げると、彦坂尚嘉が《炎上》と呼ぶ領域が
出現します。
『アートの格付け』でいうと、《第21次元 愛欲領域》です。
オリジナル《第6次元 自然領域》 《炎上》/《第21次元 愛欲領域》
《第21次元》というと、いくつも思い浮かびますが、
しかし筆頭は、なんといってもレム・コールハースでしょう。
レム・コールハースの建築は、ストレス=コントラストを上げ過ぎて、
《炎上》しているのです。
コントラストを100上げた画像
作品は、コントラストを100に上げると、
《崩壊》領域に達します。
つまり《第16次元》の作品です。
オリジナル《第6次元 自然領域》 《崩壊》/《第16次元 崩壊領域》
コントラストを100まで上げると《崩壊》に達します。
それは《第16次元 崩壊領域》でありますが、
作家例を上げるとすると、
まず、できやよい です。
それと塩田千春です。
できやよい作品
彦坂尚嘉責任による芸術分析
《想像界》の眼で《第16次元 崩壊領域》のデザイン的エンターテイメント
《象徴界》の眼で《第16次元 崩壊領域》のデザイン的エンターテイメント
《現実界》の眼で《第16次元 崩壊領域》のデザイン的エンターテイメント
《想像界》だけの表現
絶対零度だけの様態をもつ表現
《気晴らしアート》《ローアート》
シニフィエ(記号内容)の美術
《原始平面》『ペンキ絵』
【B級美術】
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《原芸術》《芸術》《反芸術》は無い。
《非芸術》《無芸術》《世間体のアート》も無い。
これは芸術概念の外部にある芸術の《崩壊》作品です。
できやよい作品 奈良美智の改竄画像《崩壊》
さて、次は塩田千春です。
この人の作品は横浜トリエンアーレの第1回展や、
越後妻有トリエンナーレの第4回展で見ましたが、
《第16次元 崩壊領域》の作家です。
ここに上げるのは初期の1994年の作品です。
Becoming Painting 「絵になること」のパフォーマンス写真です。
塩田千春
Becoming Painting 「絵になること」のパフォーマンス写真
彦坂尚嘉責任による芸術分析
《想像界》の眼で《第16次元 崩壊領域》の《真性の芸術》
《象徴界》の眼で《第16次元 崩壊領域》の《真性の芸術》
《現実界》の眼で《第16次元 崩壊領域》の《真性の芸術》
《想像界》《象徴界》《現実界》の3界をもつ重層的な表現
気体/液体/固体/絶対零度の4様態をもつ多層的な表現
《シリアス・アート》《ハイアート》
シニフィエ(記号内容)とシニフィエ(記号内容)の同時表示
《原始平面》『ペンキ絵』
【B級美術】
◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆
《原芸術》《芸術》《反芸術》は無い。
《非芸術》《無芸術》《世間体のアート》も無い。
これは芸術概念の外部にある芸術の《崩壊》作品です。
塩田千春 奈良美智の改竄画像《崩壊》
◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆
さて、これまでは、コントラストを上げて来ましたが、
この逆の、ストレスを下げて行くことも見たいのですが、
今回は時間が無くなりました。
次回のチャンスにやりたいと思います。
試験管の中で解析するのと似ていますが、スリリングでため息が出ました。
by 丈 (2010-02-02 09:35)
御説、拝読いたしました。
この方法だと、出来上がった外部をそれなりに解析できても、
方法論から優れた作品を作ることができないように感じました。
方法論では超一流の作品を逆操作で作れるわけですが、
実際に行うとそれは「再生策」と同様の結果になるというジレンマに陥りそうですね。ですから、やはりこれは彦様自身が作家であることの
乗り越えられない壁となり、自身にかえってきてしまいます。
おそらく信仰は彦坂様の内部に君臨しているのでしょう。
その信仰を捨てることもときには必要だと思いました。
非論理の部分でしょうか。
by kasiko (2010-02-02 16:34)
彦坂さんの芸術分析いつも興味深く拝見しております。
この記事でどうしても気になることが生じてしまい、失礼ながらコメントさせていただきます。
一つだけご教授願えないでしょうか?
私が「ぐっとくる」作品は、彦坂さんの鑑定で「16次元」とされるものが多いようです。
「41次元」も多いのですが、それらのような作品を、映画好きな私は「Z級」と表現したりします。
どちらが好き嫌いか、とは言えませんが、体の深部に響いてくるのは、「Z級」ではない「16次元」だと感じます。
また、恥ずかしながら精神分析もほんの少し齧っていますが、自分のこの趣味は、どうもそこで「倒錯」と定義されているものじゃないなと感じていました。
以前の記事で、各次元の倒錯関係を論じられていましたが、そこでは「16次元」は他の次元と倒錯関係を持っていませんでした。
もし、「16次元」が他の次元と倒錯関係にあるとお考えになるのであれば、ご教授願えないでしょうか。
by 十里菅利 (2010-02-02 18:54)
kasiko様
コメントありがとうございます。
ご忠告ありがとうございます。
感謝いたします。
十里菅利様
《第16次元 崩壊領域》にひかれるのは、自然なことです。多くの人が、魅了されています。いわゆる廃墟趣味もこの中に入ります。ラカン理論で《対象a》というものとも重なっています。これはまた、独立したブログで取り上げてみたいと思います。
「倒錯」という意味では、《第16次元》は倒錯しているのですが、少なくとも文明人は、倒錯した存在であると思います。書き文字を手にしたとき、つまり識字の次元にアップした時に、倒錯性を持ったのではないでしょうか。ましてや今日のコンピューター・リテラシー(電脳識字)の次元になると、ほとんど全てが倒錯してしまったように見えます。
by ヒコ (2010-02-03 01:23)
回答ありがとうございます。
「廃墟趣味」、確かにありますね。
「対象aとの重なり」、興味深いです。期待しております。
「ましてや今日のコンピューター・リテラシー(電脳識字)の次元になると、ほとんど全てが倒錯してしまったように見えます。」、この言葉、非常に重く感じます。
個人的には、「16次元」とは、厭世嗜好が一歩過剰になったものだ、というイメージがあります。
by 十里菅利 (2010-02-03 02:57)