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『アートの格付け』をコントラスト操作の比喩で見る(改題1改稿加筆3画像追加複数2) [アート論]

草間nara《形骸》61の2.jpg草間nara《6流》.jpg




彦坂さま
御説拝聴いたしました。
それでは奈良の6流の画像もPCによるコントラスト調整で、超一流になるのですね。
しかし、これはいくらなんでも単純化しすぎではないでしょうか?
図式的にすぎますので、読者を馬鹿にしていることになります。
わかりやすすぎてつまらない。
今後はもう少しわかりにくく解説してくださることを期待いたします。 
by kasiko (2010-01-29 12:24)  


kasiko様
コメントありがとうございます。
おっしゃるように「奈良の6流の画像もPCによるコントラスト調整で、超一流になる」というのは、確かに単純化しすぎていて、バカバカしい話です。

私の言っているのは、そういう事ではありません。
現実に、科学の中ではさまざまな実験が行われていて、
地震のシミュレーションでも、単純化した模型での実験が行われ、
それと、現実の事象が照合されて、問題の追及が単純へ向けてなされています。

たぶん kasikoさんは、科学をあまりお勉強なさらなかったのだろうと思います。
科学というのは、単純なのです。
万有引力も、複雑系科学も、極めて単純です。
複雑な怪物曲線を、いかに単純な原理で描きえるのか?
というのがフラクタル数学です。
真理は単純なのです。

禅宗で言う「空」とか「無」というのも、
深い意味はなくて、
雲ひとつ無い青空のような状態であって、
極めて単純で直裁です。

真理は単純であるのです。

それは哲学も同様です。
ソクラテスの無知の知というのも、極めて単純です。
デカルトのコギトというのも、単純です。
フロイトのストレス理論も極めて単純です。
ジャック・ラカンの鏡像理論も単純です。

単純な真理であるが故に、多くの人々が怒ってきたのです。
多くの人々は、単純な真理を憎悪するのです。

何故か?
人生は複雑であるからです。
生きる事は、極めてむずかしく、複雑なのです。
しかし、誰もが死ぬ。
その死という到達点は単純で、平等です。

人々は、《死》の単純さが嫌いなのです。
だから単純な理論に、《死》を見るのです。

◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆

美術作品においても、学問の研究の方法があって、
そうすることで、制作に於ける格の変化を単純化して問題にしうるのです。

実際に《気派》のメーリングリストの中で、
私は松山賢さんの作品で、
作品を自己摸倣した時に《第8次元 信仰領域》に転落すると
予想を言って、そうなったので、
その作品画像で芸術分析をしたのですが、
松山賢さんは、怒って出て行ってしまいました。

投稿者:   彦坂尚嘉 <hiko@ja2.so-net.ne.jp
Date:  2006年5月12日(金) 午前1時20分
タイトル:  松山賢さんの再制作

富井玲子様
みなさま

松山賢さんの個展が次週の月曜日からギャラリー手で開かれますが、
そこに出品される作品の中に、再制作があります。

図版を添付したので、オリジナルと比較してください。

$B2V$HF0J*!J%*%j%8%J%k!K(J.jpg

オリジナル作品

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再制作作品


松山賢再制作の2枚.jpg
再制作作品 《8流》        オリジナル作品 《2流》

あくまでも画像図版でですが、
各々を彦坂尚嘉の「アートの格付け」をしてみると次のようになります。

オリジナル・《1流》の《2流》の《1流》


再制作・《8流》の《8流》の《8流》


《1流》は常識です。 、《2流》は技術
《3流》はポップス、《8流》は信仰の領域です。



………………………………………………………

果たして実物を見るとどうなのか?

楽しみにしています。


彦坂尚嘉

私自身は、再制作や、複数制作は、避けがたい問題であると
思っています。
その時に起こる《第8次元 信仰領域》化という現象を観測していて、
それをどのように、回避して、
クオリティコントロールをなし得るのかというのが、
制作上重要な問題であったのです。

松山賢さんの作品をおとしめるのが目的ではなくて、
あくまでも、研究して、解決がしたかったのです。

しかし松山賢さんは、学者ではなかったのです。

ですから、私はあくまでも実際の作品制作に起こる問題を、
Photoshopの画像操作でシミュレーションして、
問題点を明らかにしようという学問的な試みです。

しかもその背景には、近代の単純系モダニズムから、
ポスト・モダンの、複雑系モデルネへの移行が存在しているのです。


つまり「大きな物語」の成立していた近代では、
投射モデルが成立していて、
私たちの意識に写る表層的な差異の向こう側に、
究極の単一の真理=「大きな物語」が存在していたのです。 

それが崩れたのです。

つまり単一の「大きな物語」は、多数の小さな物語に分裂してしまった。
彦坂尚嘉の『アートの格付け』では、
それが《超次元 超越領域》から《第41次元 戦争領域》までの
カースト制度のような階層構造になった深層構造が存在している
と把握しているのです。

このカースト制度を嫌う人がたくさんいるのは、知っています。
しかし、現実には、この世界は平等ではなく、階層化しているのです。

金持ちと貧乏人では、食べる食事も、着る衣服も、
住む家の《格》も、違うのです。
この世界は不平等なカースト制度があるのです。
世界と歴史は、新・中世という暗黒の世界に雪崩落ちて行って
いるのです。

彦坂尚嘉の場合には、それをあくまでも《言語判定法》という
方法による観測で、探し、提示しているのであって、
この新カースト構造は、自分勝手に作ったものではありません。

それは色票に似ています。
私自身が使っていますが「マンセル色票」のように、
現実を採取して色票を形成している色票と、
オストワルト色票」のように、観念的につくった色票の2種類が
あります。
オストワルト色票ですと、実際には存在しない色彩も
入っているのです。

彦坂尚嘉の42段階の『アートの格付け』は、オストワルト型では
ありません。
彦坂尚嘉の場合には、マンセルのように、あくまでも観測による
採取からの類推で、作っているので、
新しい事実や、
間違いに気づくという事態の中で、
変化して行きます。

マンセル色票も、観測技術の発展の中で修正されているのです。
現在採用されているJIS規格の色票は『修正マンセル』であります。

さて、まず、具体的に奈良美智の作品をネット上から、
任意にひとつ選んで見てみましょう。

nara.jpg

オリジナル画像 奈良美智作品

《第6次元》

nara《1流》.jpg

コントラストを11上げた改竄画像

コントラストを11上げてつくった改竄画像です。

この改竄は、あくまでも芸術を論じるための学問のためであって、
営利目的や、奈良美智氏の作品を、不当に卑しめるための犯罪行為ではありません。
あくまでも、芸術や美術の秘密を明らかにする芸術分析の作業であることを、
お断りして、奈良美智氏へのご理解を求めるものです。

さて、コントラストを11上げると、
原画の《第6次元 自然領域》という彦坂尚嘉責任の『アートの格付け』が、
《第1次元 社会的理性領域》の作品に変貌しました。

たかが、コントラストが少し変わっただけで、同じ奈良美智の作品
であって、何も変わらないと、考える方々は多いと思います。
無理もないことです。


芸術上では、この《第6次元》から《第1次元》への変化という事が、
極めて重要です。

nara《6流》《1流》.jpg

奈良美智オリジナル《第6次元 自然領域》                《第1次元 社会的理性領域》

 
この2枚の画像を、同じで、差が無いと、感じる人々がいます。
多くの人は、実は微細な差を見分けられません。

こまかい差を見分けることが、才能であり、技術なのです。

つまり、こまかい差を見分けられる訓練というものが必要です。
自動車の運転を習うように、些細な変化を見えわける眼の訓練が
必要なのです。

「ひよこ」のオスとメスを見分けるような、眼のこまかさです。

眼のこまかさや、デリケートなものの見分けの問題は、
レオナルド・ダ・ヴィンチが提出しています。

レオナルド・ダ・ヴィンチの最初の絵画は、
先生のアンドレア・デル・ヴェロッキオと一緒に描いたものです。

baptism190.jpg

先生よりも、デリケートさで圧倒して、
アンドレア・デル・ヴェロッキオはこれ以降筆を折っています。
つまりレオナルド・ダ・ヴィンチの才能のひとつは、
細かいデリケートさなのです。

baptismレオナルド・ダ・ヴィンチのコピー.jpg
ヴェロッキオ         ダ・ヴィンチ

ですから私たちも、レオナルド・ダ・ヴィンチのように、
デリケートにものを、見分けなければなりません。

nara《6流》《1流》.jpg

この2枚を見ても、同じに見える人というのは、
この画像を《外部》から見ているのです。
つまり違うイラストとの差から見てしまって、
2枚のコントラストの差だけの画像の意味の変化を見ることが出来ないのです。
この2枚の画像の差だけを見る《外部の眼》が、
彦坂尚嘉が言うところの《外部の眼=シニフィエ連鎖》です。

奈良《6流》2枚.jpg

この2枚の違う画像の違いを見分ける眼が《外部の眼=シニフィエ連鎖》

それに対して、同じ画像の2枚のこまかい微細でデリケートな差を見分ける事を、
彦坂尚嘉的な意味での《内部の眼=シニフィアン連鎖》と言います。

この用法は、ラカンの使う「シニフィアン連鎖」とは違います。
そしてラカンは、彦坂が使う「シニフィエ連鎖」という言葉は、
使っていないはずです(ラカン文献学の専門家のご意見をお聞きしたく思います。)


奈良《6流》《1流》2.jpg
この2枚の同じ画像の違いを見分ける眼が《内部の眼=シニフィアン連鎖》


つまり2枚の画像といった時に、
2枚の違う画像を見分ける《外部の眼=シニフィエ連鎖》と、
同じ画像の2枚の差を見分ける《内部の眼=シニフィアン連鎖》の2種類が
あります。

彦坂尚嘉の『アートの格付け』というのは、
実は、この微細な《内部の眼=シニフィアン連鎖》から、
深層構造のカースト制度のような階層構造を見て行こうと言う
ものなのです。

最近は、さらに
芸術の問題を、その内部から、さらに外部の眼までの関係を見ることを
試みています。

《外部の眼=シニフィエ連鎖》までも
とらえる努力をして来ているのです。

細かい分析をすると煩雑になっていくので、
今は、とりあえず、簡単に全体を見て行きます。



nara《超1流》.jpg

コントラストを21上げた画像

作品は《超次元》の《超1流》に変貌しました。

さて、コントラストを21上げると《超1流》《超次元》が
出現して来ます。
こういう単純なコントラストのアップによって、
変化を見ようとしている方法は、フロイトのストレス理論の単純さを、
見習っているところがあります。

つまりコントラストを上げるという事は、
あくまっでも比喩ですが、強いストレスの蓄積に
耐えられるという事です。

マラソン選手が、苦しみに耐えながら走る選手と
苦しみに耐えられないで脱落する選手がいますが、
苦しみに耐えられる選手が《格》の高い選手なのです。

nara《超1流》のコピー.jpg

《第6次元》      《第1次元》      《超次元》

多くの人にとっては、
少し変化した同じ画像があるだけであって、
それ以上の意味はないのだろうと思います。
些細な変化で、見分ける事もできないかもしれません。

ところが、彦坂尚嘉は、この違いを『アートの格付け』と考えて、
いるのです。

《第6次元 自然領域》
《第1次元 社会的理性領域》
《超次元 超越領域》


ところが、これ以上にストレス=コントラストを上げると、
倒錯して、《超次元》は、《第41次元 戦争領域》に反転してしまいます。



nara《41流》.jpg

コントラストを41上げた画像

作品は《第41次元 戦争領域》に変貌しました。
しかも《第41次元》は、倒錯領域なのです。

nara《6流》《41流》.jpg
奈良美智 オリジナル《第6次元》作品   彦坂によって改竄された《第41次元》作品

さらに、ストレス=コントラストを61上げると、
《形骸》領域が出現して来ます。
これは『アートの格付け』で言うと《第8次元 信仰領域》であります。

nara《形骸》61.jpg

コントラストを61上げた画像
《形骸》
《第8次元 信仰領域》

つまり、コントラストを上げ過ぎると、
作品は《形骸》領域に達します。
それがしかも《第8次元 信仰領域》の作品となるのです。

nara《第6次元》《形骸》61.jpg
オリジナル《第6次元 自然領域》   《形骸》/《第8次元 信仰領域》

この《形骸》である実例としては、草間弥生の肖像写真があります。

Yayoi_Kusama.jpg

0972d1e4.jpg

このドギツイ表出してくる感覚が《形骸》の《第8次元 信仰領域》
なのです。
新興宗教のような次元です。

これを奈良美智の改竄画像と比較してみます。

草間nara《形骸》61.jpg
草間弥生            奈良美智の改竄画像
両方ともに《形骸》/《第8次元 信仰領域》

しかし、草間弥生の肖像写真には、別のタイプのものもあります。

b0054167_22241653.jpg
《第6次元 自然領域》の草間弥生肖像写真

こちらの写真は《第6次元 自然領域》であって、
実像としての草間弥生に近いのです。
しかし今日の社会情勢の中では、《形骸》化させて、
キャラ化したほうが、社会的流通するのです。

b0054167_22241653のコピー.jpg
《形骸》《第8次元 信仰領域》     自然《第6次元 自然領域》

草間nara《6流》.jpg
《第6次元 自然領域》

草間nara《形骸》61の2.jpg
《形骸》《第8次元 信仰領域》


先ほどの松山賢さんの例でも、《第8次元 信仰領域》が、
再制作で出現しましたが、
この場合には、コントラストを上げたのではありません。
再制作しただけです。

再制作と、ストレス=コントラストを上げすぎる場合という、
違う原因にも関わらず、《第8次元 信仰領域》が出現すると言う、
同じ状態に達するのです。
つまり再制作という自己摸倣は、ストレス=コントラストを
上げすぎるという現象を、どうも生んでいるらしいのです。

【続きは下記をクリックして下さい】


nara炎上.jpg

コントラストを81上げた画像

作品は、《炎上》領域に達します。《第21次元》の作品です。

コントラストを81上げると、彦坂尚嘉が《炎上》と呼ぶ領域が
出現します。
『アートの格付け』でいうと、《第21次元 愛欲領域》です。

nara《第6次元》炎上.jpg

オリジナル《第6次元 自然領域》     《炎上》/《第21次元 愛欲領域》

《第21次元》というと、いくつも思い浮かびますが、
しかし筆頭は、なんといってもレム・コールハースでしょう。

casadamusica_arch.jpg

レム・コールハースの建築は、ストレス=コントラストを上げ過ぎて、
《炎上》しているのです。




nara崩壊.jpg

コントラストを100上げた画像

作品は、コントラストを100に上げると、
《崩壊》領域に達します。
つまり《第16次元》の作品です。

nara《第6次元》崩壊.jpg

オリジナル《第6次元 自然領域》   《崩壊》/《第16次元 崩壊領域》

コントラストを100まで上げると《崩壊》に達します。
それは《第16次元 崩壊領域》でありますが、

作家例を上げるとすると、
まず、できやよい です。
それと塩田千春です。

10037624960.jpg
できやよい作品
彦坂尚嘉責任による芸術分析

《想像界》の眼で《第16次元 崩壊領域》のデザイン的エンターテイメント
《象徴界》の眼で《第16次元 崩壊領域》のデザイン的エンターテイメント
《現実界》の眼で《第16次元 崩壊領域》のデザイン的エンターテイメント

《想像界》だけの表現
絶対零度だけの様態をもつ表現

《気晴らしアート》《ローアート》

シニフィエ(記号内容)の美術
《原始平面》『ペンキ絵』
【B級美術】
◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆
《原芸術》《芸術》《反芸術》は無い。
《非芸術》《無芸術》《世間体のアート》も無い。
これは芸術概念の外部にある芸術の《崩壊》作品です。




できnara崩壊.jpg
できやよい作品          奈良美智の改竄画像《崩壊》

さて、次は塩田千春です。
この人の作品は横浜トリエンアーレの第1回展や、
越後妻有トリエンナーレの第4回展で見ましたが、
《第16次元 崩壊領域》の作家です。
ここに上げるのは初期の1994年の作品です。
Becoming Painting  「絵になること」のパフォーマンス写真です。



bp1.gif
bp2.gif
塩田千春
Becoming Painting  「絵になること」のパフォーマンス写真
彦坂尚嘉責任による芸術分析

《想像界》の眼で《第16次元 崩壊領域》の《真性の芸術》
《象徴界》の眼で《第16次元 崩壊領域》の《真性の芸術》
《現実界》の眼で《第16次元 崩壊領域》の《真性の芸術》

《想像界》《象徴界》《現実界》の3界をもつ重層的な表現
気体/液体/固体/絶対零度の4様態をもつ多層的な表現

《シリアス・アート》《ハイアート》

シニフィエ(記号内容)とシニフィエ(記号内容)の同時表示
《原始平面》『ペンキ絵』
【B級美術】
◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆
《原芸術》《芸術》《反芸術》は無い。
《非芸術》《無芸術》《世間体のアート》も無い。
これは芸術概念の外部にある芸術の《崩壊》作品です。

塩田nara崩壊のコピー.jpg
塩田千春        奈良美智の改竄画像《崩壊》

◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆

さて、これまでは、コントラストを上げて来ましたが、
この逆の、ストレスを下げて行くことも見たいのですが、
今回は時間が無くなりました。

次回のチャンスにやりたいと思います。


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コメント 5

丈

試験管の中で解析するのと似ていますが、スリリングでため息が出ました。
by (2010-02-02 09:35) 

kasiko

御説、拝読いたしました。
この方法だと、出来上がった外部をそれなりに解析できても、
方法論から優れた作品を作ることができないように感じました。
方法論では超一流の作品を逆操作で作れるわけですが、
実際に行うとそれは「再生策」と同様の結果になるというジレンマに陥りそうですね。ですから、やはりこれは彦様自身が作家であることの
乗り越えられない壁となり、自身にかえってきてしまいます。
おそらく信仰は彦坂様の内部に君臨しているのでしょう。
その信仰を捨てることもときには必要だと思いました。
非論理の部分でしょうか。
by kasiko (2010-02-02 16:34) 

十里菅利

彦坂さんの芸術分析いつも興味深く拝見しております。
この記事でどうしても気になることが生じてしまい、失礼ながらコメントさせていただきます。
一つだけご教授願えないでしょうか?

私が「ぐっとくる」作品は、彦坂さんの鑑定で「16次元」とされるものが多いようです。
「41次元」も多いのですが、それらのような作品を、映画好きな私は「Z級」と表現したりします。
どちらが好き嫌いか、とは言えませんが、体の深部に響いてくるのは、「Z級」ではない「16次元」だと感じます。

また、恥ずかしながら精神分析もほんの少し齧っていますが、自分のこの趣味は、どうもそこで「倒錯」と定義されているものじゃないなと感じていました。
以前の記事で、各次元の倒錯関係を論じられていましたが、そこでは「16次元」は他の次元と倒錯関係を持っていませんでした。
もし、「16次元」が他の次元と倒錯関係にあるとお考えになるのであれば、ご教授願えないでしょうか。
by 十里菅利 (2010-02-02 18:54) 

ヒコ

kasiko様
コメントありがとうございます。
ご忠告ありがとうございます。
感謝いたします。

十里菅利様
《第16次元 崩壊領域》にひかれるのは、自然なことです。多くの人が、魅了されています。いわゆる廃墟趣味もこの中に入ります。ラカン理論で《対象a》というものとも重なっています。これはまた、独立したブログで取り上げてみたいと思います。
 「倒錯」という意味では、《第16次元》は倒錯しているのですが、少なくとも文明人は、倒錯した存在であると思います。書き文字を手にしたとき、つまり識字の次元にアップした時に、倒錯性を持ったのではないでしょうか。ましてや今日のコンピューター・リテラシー(電脳識字)の次元になると、ほとんど全てが倒錯してしまったように見えます。

by ヒコ (2010-02-03 01:23) 

十里菅利

回答ありがとうございます。
「廃墟趣味」、確かにありますね。
「対象aとの重なり」、興味深いです。期待しております。
「ましてや今日のコンピューター・リテラシー(電脳識字)の次元になると、ほとんど全てが倒錯してしまったように見えます。」、この言葉、非常に重く感じます。
個人的には、「16次元」とは、厭世嗜好が一歩過剰になったものだ、というイメージがあります。
by 十里菅利 (2010-02-03 02:57) 

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