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石川知裕/田中角栄と中川昭一/小泉純一郎(加筆1) [顔]

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今回の検察と小沢一郎の激突は、
田中角栄、金丸信からの長年の宿怨という面で、凄まじいものです。

同時に権力闘争が、今のこの時期に激化するという面で、
興味深いものです。

つまり、本来は自由民主党の政権が終わって、
民主党政権が、安定して次の時代を作るべきであるはずなのに、
検察権力は、この民主党政権を解体するように
闘争を仕掛けて来ているのです。

何故なのか?

政治権力と、検察権力が激突しているのです。

日本の権力構造は、内ゲバで空中分解し、
錯乱と混乱の中に突入して、
日本の経済は、一挙に崩壊するかもしれません。

そうすれば激しいインフレが襲うと予想されます。
ブラジルなどは、年間で1000倍のインフレに襲われています。

インフレになれば、退職金などの預金は、価値を激減して、
日本はさらに貧しくなります。

そういうわけで、
小沢一郎が失脚し、民主党政権が瓦解するのかどうかは、
私たちの経済生活を脅かす、大きな要因になります。

小沢一郎は悪なのでしょうか?

まず、小沢一郎の師匠とも言える田中角栄の顔を分析してみましょう。

img_1512647_48105566_0.txt.jpeg
田中角栄の顔
彦坂尚嘉による《言語判定法》での人格分析

《原人格》が有る。
《人格》が有る。
《反人格》が有る。
◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆
《非人格》が有る。
《無人格》が有る。
《世間体人格》が有る。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

《想像界》の眼で《超次元》〜《第41次元》《真性の人格》
《象徴界》の眼で《第41次元》〜《超次元の《真性の人格》
《現実界》の眼で《超次元》〜《第41次元》《真性の人格》

《想像界》《象徴界》《現実界》の3界をもつ重層的な人格
気体/液体/固体/絶対零度の4様態をもつ多層的な人格

《シリアス・アート的人格》
《ローアート的な人格》

シニフィアン(記号表現)的人格

《透視画面的人格》


田中角栄を理解するために、小泉純一郎の顔と比較をしてみたいので、
小泉の顔の分析をしてみます。

17_img01.jpg

小泉純一郎の顔
彦坂尚嘉による《言語判定法》での人格分析

《原人格》が無い。
《人格》が無い。
《反人格》が無い。
◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆
《非人格》が無い。
《無人格》が無い。
《世間体人格》が無い。

つまり小泉純一郎の人格は、《形骸》である。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

《想像界》の眼で第8次元 信仰領域》《真性の人格》
《象徴界》の眼で《第8次元 信仰領域》のデザイン的人格
《現実界》の眼で《第8次元 信仰領域》《真性の人格》

《想像界》だけの人格
液体だけの人格

《気晴らしアート的人格》
《ハイアート的な人格》

シニフィエ(記号内容)的人格

《原始平面的人格》
『ペンキ絵』的な人格

小泉田中.jpg

《形骸》     総合的人格者

上の写真を見ていただきたいですが、
小泉純一郎が、人格の《形骸》者であるというのは、
普通に視覚的に人相を見ても、
小泉の影が薄くて、角栄が充実していると見て取れるもの
ではないでしょうか。

もっとも人によって好みは違うので、
田中角栄を嫌う人には、
小泉が素晴らしく見えるかもしれません。

小泉純一郎の政治家が成し遂げた事が、何であったのかと、
歴史的に評価をしようとすると、実は空虚であるのです。

小泉チルドレンたちにしても、それは幻のようなもので、
政治勢力となることもできませんでした。

人格的な《形骸》者を首相にすると、実は被害が大きいのです。

小泉純一郎に限らず、実は人格的な《形骸》者というのは、
たくさんいるのです。

電車に乗って、座っている人々の顔を観察しても、
多くの人は《形骸》の顔をしているのです。

言い換えると、彦坂尚嘉が人格の《形骸》という、
ひどい言い方をしている人々こそが、
この人間の社会を形成している多数者なのです。

◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆

現在の検察と小沢一郎の闘いにしても、
簡単に小沢一郎が悪であると言えないのです。

検察そのものに、日本の官僚機構の権力の中枢があって、
これが、最後の権力闘争を展開しているのです。

週刊朝日や、日刊ゲンダイも、こういう視点で書いて来ています。


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検察の動き、特に情報のリークを多用して、
世論操作をしてくる手法そのものに、
検察の狂気が感じられるのです。

これら情報漏洩による世論操作は、正当なものではありません。

検察の中心人物たちの顔が見えない事も気になります。
検察権力の中枢の顔を、人相見する事ができないのです。

検察=官僚であることは確かであって、
日本官僚機構の、最後の砦が検察で、
検察は、官僚制の保持を
この対小沢一郎との闘いにかけているのです。

つまり日本の官僚権力の、関ヶ原の闘いなのです。

そういう興味の中での石川知裕の逮捕ですが、
これもアルコール中毒問題を繰り返し起こして死亡した中川昭一との
宿怨を持った政治家で、興味深く思います。



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石川知裕の顔
彦坂尚嘉による《言語判定法》での人格分析

《原人格》が有る。
《人格》が有る。
《反人格》が有る。
◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆
《非人格》が有る。
《無人格》が有る。
《世間体人格》が有る。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

《想像界》の眼で《第1次元》〜《第6次元》《真性の人格》
《象徴界》の眼で《第1次元》〜《第6次元》の《真性の人格》
《現実界》の眼で《第1次元》〜《第6次元》の《真性の人格》

《想像界》《象徴界》《現実界》の3界をもつ重層的な人格
気体/液体/固体/絶対零度の4様態をもつ多層的な人格

《シリアス・アート的人格》
《ハイアート的な人格》

シニフィアン(記号表現)的人格

《透視画面的人格》


中川昭一のアルコール中毒症?





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中川昭一の顔
彦坂尚嘉による《言語判定法》での人格分析

《原人格》が無い。
《人格》が無い。
《反人格》が無い。
◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆
《非人格》が無い。
《無人格》が無い。
《世間体人格》が無い。

つまり中川昭一の人格は、《形骸》である。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

《想像界》の眼で第8次元 信仰領域》《真性の人格》
《象徴界》の眼で《第8次元 信仰領域》のデザイン的人格
《現実界》の眼で《第8次元 信仰領域》《真性の人格》

《想像界》だけの人格
液体だけの人格

《気晴らしアート的人格》
《ローアート的な人格》

シニフィエ(記号内容)的人格

《原始平面的人格》
『ペンキ絵』的な人格

中川昭一そのものは、人格的に《形骸》であって、
それが、たまたまアルコール中毒と重なる事で破滅し、
死に至ったのではないでしょうか。

中川昭一の顔と、小泉純一郎の顔は良く似ているのですが、
しかし一人は首相にまで登り詰め、
もう一人はアルコール中毒になっているのであって、
その違いを生み出している要因は、
彦坂尚嘉の人格分析では出てこないのです。

むしろ逆であって、
一見、大きく違う人々の中に、こうした共通性を見つけているのです。

つまり、彦坂尚嘉が《形骸》として指摘している人々が、
実は多様であって、さまざまに成功も失敗もしているのです。

しかし成功した小泉純一郎のような人物でも、
その《形骸》性は、出てくるのであって、
小泉チルドレンというのは、田中角栄のような政治勢力には
ならないし、
小泉純一郎自身も、首相後にも政治勢力を維持する事は
できないのです。
田中角栄が、逮捕された後でも闇将軍として実力を発揮し続けたのとは
大きな違いが有るのです。


さて、そういう事で、彦坂尚嘉流の《言語判定法》による、
人相見をやることで、謎を少しでも明らかにしようとしているのです。

【続きは下記をクリックして下さい】
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《言語判定法》と人格分析

このブログを読んで下さっている読者から、
わざわざお電話をいただいて、
「何故に、そういう事が言えるのか?」という質問を
いただいたのですが、
使っている方法は《言語判定法》というものです。

対象を視覚的にイメージで判断する《イメージ判定法》ではなくて、
言葉を丁寧に投げかけて、その木霊(こだま)をとって、
対象と言語の関係から判断している
《言語判定法》なのです。。

最近開発している芸術分析と、人格分析は、
私自身の長年の疑問と苦しみの原因を認識させてくれる意味で、
画期的であります。

人相見である人格分析では、《形骸》という領域を見つけて、
「人格の《形骸》」と言うべき人間が多数存在していることを
発見して、ある意味で納得しているのです。

◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆

つまり人間の人格そのものも多様なのですが、それだけでなくて、
「人格の《形骸》」でしかない人々がいるのです。

しかし、そういう指摘は人格攻撃として受け取られ、
名誉毀損になるので、なかなか普通の人を分析する事ができません。

そこで政治家を中心に取り上げます。

政治家の場合は、公的責任が大きいので、
人格分析をして、人格攻撃と見られる事を書いても、
名誉毀損にならない可能性が高いのです。

つまり小泉純一郎を、人格の《形骸》として、
人格分析の結果を出しても、
それは首相までなった人の人格が、大きく公益に影響を与えて
いるので、公的な責任がありますから、
その人格分析は、公共の利益に合致するのでなし得るのです。

しかし私のやりたい事は、特定の人物の人格攻撃ではありません。

そうではなくて、人格そのものが多様であると言う事と、
人格というものがある人々と、
無い人々があって、
人格の無い人々は、
人格の《形骸》として出現して来ているという指摘です。


この人格そのものの多様性と、芸術の多様性は、
実は関連しているという視点で、私は見ています。

芸術というのは、その作家の人格構造という私的領域と
深く関わっているのであって、
私性の構造と、美術構造の関連の中で芸術が形成されているからです。

ですから、人格構造を、人間の顔を、まるで絵画や彫刻のように
見て、芸術分析するのと同じ手法で人格分析することで、
見えてくるものがあって、
そのことで、対人関係で経験して来た不可解な事象を解明して、
納得できるものにしえる事に、興味が有るのです。

その中に、表現の《形骸》領域とともに、
人格の《形骸》領域があるのです。

◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆

人間の中に、人格の《形骸》しかない人々がいて、
この《形骸》ゆえに、本人たちも苦しみ、周囲の人々も苦しむの
です。

しかし《形骸》という人々は多くて、
実は人間の本質なのかもしれません。

つまり逆ではないのか?

人格の形成自身が、
後天的であって、
もともと自然段階の人間には、人格形成は無いのではないのか?

たとえば、無文字社会の人々や、
昔は文盲と言って、今日では差別用語になって使えなくなっています
ので、非識字といいますが、
彦坂尚嘉が使っている「人格」という言葉は、
非識字の人々には、当てはまらない、つまり《言語判定法》的には、
《形骸》と出てしまう可能性が高いのです。


つまり原始人とか、野蛮人、野生人には、
彦坂尚嘉が《言語判定法》で問題にしている人格は
無いのではないのか?

人格と言うのは、ですから自然ではなくて、
文明的な事象であって、
文明を作り、書き文字を発明し、初期哲学を形成した
初期文明段階で初めて生まれたのではないのか?

中川昭一のアルコール中毒にしても、
インディアンやエスキモーの人々がアルコール中毒になるのに
似ているのであって、自然人はアルコールに対して、
依存しやすいと考えられます。

つまりアルコール中毒にならないように、
適切のコントロールする理性というのは、
文明的な理性であって、《形骸》者=自然人の中には、
弱い人々がいるのです。

つまり、簡単に言えば、本を読んで、文明人となる必要があります。
文字を通して文明化を確立しないと、
人格は形成できないのではないのか?

文明の中に生まれても、
漫画やゲームばかりで、キチンと本を読んで勉強しないと、
人格は形成できないのではないのだろうか。

つまり文明の中の野蛮人というのは、
《形骸》者なのです。

本を読まない人々に《形骸》の人が多いのです。

同様なことは芸術にも言えて、
自然は芸術ではないのです。

芸術は、人類の文明化の初期段階に出現してくるものであって、
それは子供の絵や、精神病者の絵では無いのです。

今日では、こうしたアウトサイダーアートを芸術と信じる人々が
多くいますが、これらの美術を探究してみると、
実は芸術ではない事が分かるのです。

アウトサイダーアートを芸術と信じたい人々は、
実は《形骸》者の人が多いのです。

芸術も人格も、自然ではなくて、
文明化によって生み出された人工性であると、彦坂尚嘉は考えている
のです。

多くの人々=《形骸》者とは意見が違うのは知っているのですが、
厳密に探究しようとして、様々なものを見てくると、
こうした結論になるのです。

◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆

《形骸》と指摘している人々を、
彦坂尚嘉が差別しようとしているのではありません。

むしろ多数者である《形骸》者を、きちんと対象化して、
付き合うべきであると考えています。
《形骸》者は、視野が直接的ですから、
理解できる範囲が狭いのです。

《形骸》者は、「わからない」ということに、
極度に弱いのです。
人生は複雑で、分からない事が多いのですが、
《形骸》者は、「わかること」にしがみつきます。

ですから、「分かりやすい事」を提供してあげることが、
必要です。
劇団四季の芝居や、NHKの大河ドロマの馬鹿馬鹿しさは、
実は《形骸》者たちに向けて作られているのです。

「男はつらいよ」とか水戸黄門などのシリーズも、
この「分かる」ことを求める《形骸》者に向けられたものです。

《形骸》者たちは、目先目先しか理解できないので、
大きな文脈や、長い時間をかけた系譜学のようなものを、
嫌う傾向があります。

人間社会の、最大で8割りの人々が、
《形骸》者であると、推定されます。

近代の産業革命は、
実は彼らに、単純労働を与える事に成功したシステムであったのです。

今日の複雑系の社会というのは、
単純労働には、安い給料しか払おうとしないので、
《形骸》者という多数者には、非常に過酷で不幸なシステムに、
社会が移行してしまったのです。

現在の日本社会が壊れて行く基本には、
こうした《形骸》者のかなりの人々を、淘汰しようとしている、
過酷さがあると思います。

有能な人間には多額の給料を払い、
無能な《形骸》者には、安い給料を払うという、
今日のシステムは、
かつての終身雇用・年功序列の給与体系に比べて、
《形骸》者には、過酷で淘汰されるシステムなのです。

美術にも、同様なしわ寄せは押し寄せて来ていて、
かつてのようには、貸し画廊を借りて、売れもしない美術を
発表して、作家として虚名を形成することは
できない社会になって来たのです。

美術系アーティストの中には、多数の《形骸》系の人々がいるのですが、
かれらの居場所としての美術界は、解体されて来ているのです。
過酷な時代に成って来ているのです。

しかし、そういうなかでも、実は芸術は必要とされるのです。

同時に、芸術の《形骸》に、
深い意味を見いだす人々がいるのです。

《形骸》は、100円ショップのように、重要なのです。
《形骸》と、《真性の芸術》の2重性として、
今日のアートは、出現して来ているのです。

私たちは、この二つを同時につくる必要があるのです。


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コメント 18

齊藤

ウィトゲンシュタインは私的言語(自分一人だけが理解できる言語)について考えました。そして私的命名(自分一人だけが知っている感覚、感情に名前を付けること)は不可能だという結論に至りました。私的命名は意味がないのです。彦坂氏の言語判定法は私的命名にきわめて近いものです。意味がないのです。
中原佑介氏は言語判定法は嘘ではないと言ったそうですが理解することはできないでしょう。
確かに過去の著作には客観的で納得のいくものがあります。ですがそれは過去の話です。私からいわせれば最近の椹木野衣批判も苦しいものです。
現代思想について多少の勉強を積まれたのでしょうが、現代には通用しないほどの複雑な世界が広がっているのです。上の批判はその一端にすぎません。晩年に成熟することのできないアーティストを揶揄される彦坂氏ですが滑稽な政治批判を謳う姿は晩年の奥崎健三のようです。

>上の写真を見ていただきたいですが、
 小泉純一郎が、人格の《形骸》者であるというのは、
 普通に視覚的に人相を見ても、
 小泉の影が薄くて、角栄が充実していると見て取れるもの
 ではないでしょうか。

「普通に視覚的に見ても」。いよいよこんな事を言い出しました。笑わせてくれます。そういう意味ではエンターテイメントになりえますし、人相占いの本でも出されたらそこそこ受けるかもしれませんね。

by 齊藤 (2010-01-22 20:13) 

ヒコ

齊藤様
ご批判ありがとうございます。
「私的命名は意味が無い」というご指摘は、初めてですので、興味深く拝読しました。ウィトゲンシュタインの私的言語についてを、きちんと勉強していないので、表面的な反応ですが、普通の意味で言うところの「私的言語」というのは、美術界にはかなりあるものです。
 例えば中西夏之氏には、一度機会があって、彼の絵画論のレクチャーを受けましたが、その論理と用語が、あまりに私的なので驚きました。その後、西武美術館での展覧会のカタログで、その論理がまとまっています。この中西氏の文章と、私の絵画分析を比較してみていただくと良いのですが、私の方が、善くも悪くも分かりやすく、面白いはずです。
 もう一人例をあげると、菅木志雄氏の論文集が、横浜美術館のカタログとして出ています。これも、私から見ると私的言語のように見えます。これと私の文章を比較していただければと思います。
 しかし1970年代の美術家の書いた文章は、かなりの量があって、これらもぜひ読んでいただいて、これらと比較して私の文章が私的言語に満ちていて、意味が無いかどうかを考えていただければと思います。これらを読もうとすると、一番簡単なのは、『美術手帖』の展覧会の案内欄に並んでいる文章です。もうひとつはホルベインが出していたPR雑誌の『アクリラアート』です。ここには、多くの美術家の文章が収録されています。
 美術評論家でも、例えば早見暁氏とか、谷新、峯村敏明、などの諸氏の文章と、私の文章を比較して、どちらが私的言語で書いているかを比べていただきたいものです。
 一般的には、日本の現代美術批評は、極めて読みにくく、私的言語に満ちています。しかし、アメリカの美術批評も、かなりたいへんなものが多いように思います。ただそれは私の貧しい英語力かもしれません。
 
 私自身も、他人の文章を読んで、意味が無いと思う事はたくさんあります。ですので、ご批判の基本は分かります。ごもっとも と思いますが、多かれ少なかれ、ご指摘の問題は、一般性があると思います。

 このご指摘をいただいた文章は、実は、自分自身の長年の苦しみを解決するための探究の果てに書かれたもののひとつです。私の接して来た人間、先ずは自分自身であり、そして家族、友人、多くの作家たち、そして日本社会、こうした中で生きて来て、非常に苦しみがあったのです。それが、《形骸》という領域を発見する事で、かなりの分量が、納得がいくようになりました。
 しかし私の書いている事は、多くの人々に読みたくない、嫌な事だろうと思います。ですから、いろいろな反発が有る事は理解できます。
 私自身は、高校生から、膨大な量の文章を書いて来ています。これらが無意味であるとされる事自体は、ある意味で、覚悟の上なのです。プロの表現者というのは、そういうものです。
 このブログ自身は、私の勝手で書いているものですから、無意味と思えば、読むのを止めて下されば良いと思います。私の言語に意味を感じるか感じないかは、各人の判断でなさるしか無いのです。そして私自身も、私の文章の読者なので、常に疑ってはいます。
 ご批判に、改めて感謝いたします。
by ヒコ (2010-01-22 20:46) 

鮎の塩焼き

今回のブログを読んで中川昭一と麻生前総理が、秋葉原系のいわゆるオタクの人たちに人気があったのを思い出しました。以前、形骸としてフィギアをも例にあげてらっしゃいましたが、そのような形骸を愛好する人々が人格の形骸である政治家を慕うというのは、何だか怖い様子だと思いました。

社会芸術とミケランジェロに関するアート論の続編を楽しみにしています。それでは失礼いたします。
by 鮎の塩焼き (2010-01-23 00:09) 

ふしぎちゃん

《形骸》者と人格保有者とを対立的に見る時に、特に芸術関係者には多いと思うのですが、自然人であることを時として意識してふるまっているという場合があるように思います。そのようなふるまいを支えるイデオロギーが広くあるように思うのです。その場合、小泉純一郎や中川昭一と同じ、または《形骸》の多様性の一部と見ていいのか?ということが疑問に思いました。
(私的なやりとりをメールでする等の場合をのぞいて)このようにネットで書き込みをする場合にも、ハンドルネームを使い分けるなど複数の「キャラ」を演じているという自意識を持つということがあると思います。いわゆる、「これはネタでやっている」という意識。しかし背後にはある自意識が、キャラを演じている表面にも実はあらわれているのだと見ると、顔というのも文明以前・以後の明確な区分けでは見れなってくるようにも思いました。
ちなみに首相の顔の持っている質が、明らかに変わったなと私が感じているのは小渕恵三以後の面々です。
by ふしぎちゃん (2010-01-23 11:42) 

ヒコ

鮎の塩焼き様
コメントありがとうございます。
「おたく」というのは、自分自身も、少なくとも過去では、早い時期のオタクでしたので、取り上げてみたいと思います。
 ミケンランジェロ思い出しました。頑張ります。

ふしぎちゃん様
最初の自然人の部分が、良く理解できませんでした。
 二つ目のキャラの問題は、私も興味があります。自分の顔写真を使って、分析してみたいと思います。
 三つ目の件ですが、気持ちとしては、日本の首相の顔を全部格付けしてみたいとは思います。作品として、本当は明治以降の日本の首相全部を並べた作品をやりたいですが、手間がたいへんですね。
 ですので、取りあえず、最近に10人をまずやってみるというくらいから、挑戦をしてみたくは、思います。
 しかしですね、私は現在そうとうに忙しくて、締め切りに追われているので、まあ、とにかく、リアルにしかできません。
by ヒコ (2010-01-23 12:43) 

李相学

齊藤さんは意地悪ですね。品格がないと美術には不適格です。もしかして売れないアーティストかもしれません。

私的言語や政治家の人相占いなど興味はないのですが、小沢と検察の全面対決は政治にかかわる諸勢力を統合し権力再編という大きな視野を持っていて興味深い。天皇の政治利用と言われた宮内庁や法務・検察批判はその象徴です。横浜映像祭で見られた自称アクティビストのお坊っちゃん作家たちが戯れるゲームではありません。今夕、小沢はなんとコメントするのでしょうか。

またもう一つ、ヒコさんの言われたインフレーションには興味あります。なにせ最大の債務者である国家の荷が軽くなるわけですから。この国はほぼ日本国民と国内金融機関を債務者とし海外にデプトがないので外為を犠牲にすれば比較的に安易に棒引きするつもりなのでしょうね。

形骸とは詐欺的な美術です。このようなアートやくだらない批評家など早晩に消えてなくなりますから現実に生きることにいたしましょう。
by 李相学 (2010-01-23 15:54) 

浮き舟

以前ブログ1のほうで、「小泉純一郎は現実界の人格」との表記があったのですが、「首相当時の小泉純一郎」ということですか?
by 浮き舟 (2010-01-24 04:30) 

浮き舟

あと、ついでになってしまうのですが、芥川・太宰・三島の分析(顔だけでも)をぜひお聞かせ願いたいとおもいます。
by 浮き舟 (2010-01-24 04:42) 

浮き舟

もうひとつ、「普通に視覚的に見ても」は、配慮なのではないでしょうか、門戸を広くという意味での。
by 浮き舟 (2010-01-24 04:54) 

川上直哉

初めてコメントいたします。
「建築系ラジオ」で、彦坂様のお話に惹き込まれ、
ブログで、たくさん、新しい刺激をいただいています。
感謝しつつ、今回は、二つ、お伺いしたいことがあります。

一つは、小沢一郎氏の人格分析がなされなかったことです。
小沢氏は、田中角栄の継承者でありながら、
田中派のような組織を作れずに今に至っています。
二人の間の継承と断絶は、あるいは、
「戦後」日本の空気の変化を示しているのかもしれません。
彦坂様のご意見を、伺いたく存じました。

もうひとつは、「野蛮」と「アルコール依存」の問題です。
「インディアンやエスキモーの人々がアルコール中毒になる」
「自然人はアルコールに対して、依存しやすい」
等といった表現は、
大切な問題を見えなくさせるように思われました。

大切な問題、というのは、
適応/不適応、という問題です。

「自然人」は、自然の中においては、
依存症になりにくいのではないか。
「人格」者は、「形骸」社会において、
アルコールその他に依存しやすいのではないか。

今、時代の節目にきている、ということを、
彦坂様の言説を刺激として、強く感じています。
「これまで」とは違う時代が来つつ、ある。
「これまで」に適応してきた大多数は、
次第に、追いつめられることでしょう。
そして、「これまで」に不適応であった人々が、
生き残っていく可能性を広げている。
ただ、「これまで」の世界において、
「不適応だった人」のもっていた創造的役割を、
私は、忘れないようにしたいと思っています。
だから、「自然人」の価値は、
10年後に、きっとはじめて、
今とは全く違う形で、輝いてくるかもしれない。
それはちょうど、今のネイティヴ・アメリカンのように・・・
(イメージは、AKIRAの『COTTON100%』です)。

そう考える私は、
「自然人=依存しやすい」という表現に、
鋭い引っかかりを覚えました。

長文となりましたこと、
論点がずれているかもしれないこと、
どうぞ、お赦しください。

それでは失礼します。

川上直哉
by 川上直哉 (2010-01-24 06:42) 

ヒコ

李相学様
コメントありがとうございます。日本の権力中枢で起きている再編は、最終的には憲法問題と、天皇制の再編まで至ります。ここまで行かないと、日本の情報化社会への移行はできないのです。
by ヒコ (2010-01-24 17:59) 

ヒコ

浮き舟様
コメント3つありがとうございます。
最初の小泉の件で、探すのに手間取ったのと、何しろ搬入と仕事で追われていて、遅れてすみません。
ご指摘の小泉の《現実界》と《想像界》の件は、重要な食い違いです。私が予想はしていた事なので、良い実例が見つかった事なので、ご指摘感謝します。私自身の顔の分析も交えて、別のブログで書きたいと思います。

芥川・太宰・三島の顔の分析というのも、面白いですね。宿題ばかりが増えますが、これもやりたいですね。

「普通に視覚的に見ても」という件ですが、私は、《言語判定法》がすべてだとは、主張していません。人間の判断というか、現実の測定には、3種類があって、普通にやられているのは《イメージ判定法》です。これが「普通に視覚的に見ても」という事です。
 もうひとつが《現実判定法》で、普通はこの方法は、科学的判定法と言います。
 それにもうひとつ《言語判定法》というものがあるというのが、私の主張です。

 これは、ラカンの《想像界》《象徴界》《現実界》の3界が人間の精神を作っているという事と対応した3つの測定法です。

《想像界》で判断しているのが、《イメージ判定法》です。
《現実界》での判断が《科学的判定法》です。
《象徴界》での判断が《言語判定法》です。

昔の呪術的な《想像界》の知性は、いまだに生きていて、有効性があるものだと、考えているのです。

《想像界》の人々は、今でも呪術は生きていますし、有効性があります。占いも、《想像界》の面では有効です。昔の呪術的な《想像界》の知性も、いまだに生きていて、有効性があるものだと、考えているのです。

 こういうと、私自身が科学を否定しているようにとらえられますが、そうではありません。
 人間の精神史は、呪術、世界宗教、科学、そしてサントームと、4段階をへて来ています。
 個体発生は、系統発生を繰り返すという意味で、人間の学習作業としては呪術を学ぶ事は必要であると考えます。昔の呪術的な《想像界》の知性も、いまだに生きていて、有効性があるものだと、考えているのです。

 もうひとつ、先ほどのべたように《イメージ判定法》《言語判定法》《科学的判定法》の3つが有るのですが、もしかすると《サントーム判定法》というようなものがあるのかもしれません。誰か知っていたり、ヒントがあったりすれば教えていただきたいと思います。

by ヒコ (2010-01-24 23:39) 

浮き舟

忙しい中の返信、ありがとうございます。《サントーム判定法》というのもおもしろそうですね。
自分は不勉強な学生なのですが、このブログを見ると、勉強への意欲が湧いてきます。
今後も楽しく拝見させて頂こうと思います。
by 浮き舟 (2010-01-25 00:51) 

らん

>中川昭一の顔と、小泉純一郎の顔は良く似ているのですが、
>しかし一人は首相にまで登り詰め、
>もう一人はアルコール中毒になっているのであって、
>その違いを生み出している要因は、
>彦坂尚嘉の人格分析では出てこないのです。


中川氏はたしか米国債をこれ以上買うのを拒否したからじゃなかったでしたっけ。中川氏はお父上も悲惨な亡くなり方をしています。辛い宿命を抱えながらよく政治活動を続けていられたと思います。
小泉氏はアメリカの要求通りに動いたからの長期政権ですね。
by らん (2010-01-25 19:58) 

ヒコ

(2010-01-25 22:38) 様

NO NAMEは削除させていただくルールでやっていますので、
どうぞよろしくお願いいたします。

>長々と書いてるが、結局はプログ主が反自民で親民主なわけで
>しょ。
>でなければ、ここまで極端な話にはならないわwww

お気持ちは分かりますが、私は55年体制の終了を望んで来ただけで、親民主というふうに、単純化できるものではありません。

小沢一郎も古いと思います。
新しい政治勢力が生まれるまでには、まだ時間がかかって、日本は壊れ続けて行くのではないでしょうか。

by ヒコ (2010-01-28 04:49) 

ヒコ

川上直哉様
お返事遅れてすみません。
別のブログで、お返事書きます。
by ヒコ (2010-01-28 04:51) 

NO NAME

岸田秀さんを検索してたらここに辿りつきました。
顔分析面白いです。

>人間社会の、最大で8割りの人々が、
>《形骸》者であると、推定されます。
>近代の産業革命は、
>実は彼らに、単純労働を与える事に成功したシステムであっ>たのです。

この形骸の話は自分は面白かったです。
これは恋愛にもあてはめるなら、
本来なら形骸ではない者にしかできない恋愛が、
誰でもできるものだと勘違いしたところに
ある種自分たちの不幸があるのかもしれません、

いつか自分の顔も診断してほしいです笑。
by NO NAME (2014-09-14 22:02) 

医師久松篤子


       提 言

1.  BMIが16未満の低栄養状態の人は、

  Refeeding syndromeを発症するリスクが高いことを

  まず知ること!である。

2. Refeeding syndromeは、積極的な栄養補給の開始後

  1~2週間までに発症して、重篤な心肺機能を引き起こし

  死に至る可能性が高い症候群であるから、

   その発症を予防するためには、カロリー投与は少量から

  開始するのが重要である。
by 医師久松篤子 (2019-07-10 12:49) 

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