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栃原比比奈の ジキル&ハイド2重人格展(校正1) [気体分子ギャラリー]



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神奈川県藤沢市亀井野にある気体分子アトリエでの展示風景

気体分子ギャラリー第3回企画

栃原比比奈の
ジキル&ハイド2重人格展

2010年1月2日〜30日 気体分子アトリエ展
            藤沢市亀井野3-23-11
            要アポイントメント 
            090-1040-1445
            途中で展示替えがあります。

2010年1月25日〜30日 ギャラリー山口
            東京都中央区京橋3-5-3
            ☎ 03-3564-6167

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 栃原比比奈(とちはらひいな)は、横浜に1977年3月3日生まれです。雛祭りの起源といわれるものに「比比奈遊び」というものがあって、比比奈(ひいな)は3月3日の雛祭り(ひなまつり)に生まれたので、「比比奈(ひいな)」という名前を親に付けられたのでした。


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 1977年生まれというのは、同年齢のアーティストとしては できやよい が、います。
作品が点描を使う事や、知的障害者の絵画を研究した事などあって、できやよい との類似性は、多摩美の学生時代から指摘されていた様です。しかし表面の類似性はともかくとしても、本質的には、ずいぶんと違う作品であると言えます。


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できやよい作品の芸術分析
《第16次元 崩壊領域》のデザイン的エンターテイメント
《原芸術》《芸術》《反芸術》は無い。
《非芸術》《無芸術》《世間体のアート》は有る。


 今回の個展は比比奈(ひいな)の初個展なのですが、点描画法による作品群とCOCKYというキャラクター絵画という2種類の作品を同時に発表するのです。

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栃原比比奈 「めしべ」1999〜2000年、
キャンバスに油彩 1880×1620㎜

《第41次元》〜《超次元》の《真性の芸術》
《原芸術》《芸術》《反芸術》《無芸術》《非芸術》《世間体のアート》の
すべてがある。 



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栃原比比奈 「女性性器のある椅子」2001年 
キャンバスに油彩 1940×1940ミリ

《第41次元》〜《超次元》の《真性の芸術》
《原芸術》《芸術》《反芸術》《無芸術》《非芸術》《世間体のアート》の
すべてがある。 

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栃原比比奈 「コッキーの窓」 紙にアクリル 全21枚 2000 180×195㎜

《第41次元》〜《超次元》の《真性の芸術》
《原芸術》《芸術》《反芸術》《無芸術》《非芸術》《世間体のアート》の
すべてがある。 

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栃原比比奈 「コッキーのペン皿」 ブロンズ 2000年 70×115×h:80㎜

《第6次元 自然領域》の《真性の芸術》
《原芸術》《芸術》《反芸術》《無芸術》《世間体のアート》は無い。
《非芸術》だけがある。



 点描絵画とキャラクター・イラストレーション絵画という2種類の作品がある故に、それで比比奈(ひいな)が、ロバート・ルイス・スティーヴンソンジの『ジキル博士とハイド氏』という小説にあるような、善人と悪人の2重人格者/解離性同一性障害者であることを示しているのかもしれない、と称した展覧会なのです。

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 実は、芸術とアートというのは、栃原比比奈(ひいな)のように2重人格なのです。
 
 つまり芸術という、ジキル博士に対応する理性的な頭脳の支配する上部構造の芸術と、もう一方のアートには、ハイド氏に対応する野蛮な原始的な頭脳が支配する下層構造のアートがあるのです。
 
 芸術とアートを使い分けたのは、昔は「現代美術」と言ったのに、1991年以降は「現代アート」と言うようになって、似て非なる時代になったからです。

 それを彦坂尚嘉の用語で図式すると、次のようになります。

《原芸術》
《芸術》
《反芸術》
◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆
無芸術
《非芸術》
《世間体のアート》

 理性脳に接している《原芸術》というのは、モダンアートの原理を支えた純粋芸術の核心です。人間が自然採取の野蛮生活をしていたときから、農耕を始めてエジプト文明や黄河文明のような文明が発生する、その理性脳の発達の原初にあった、芸術以前の芸術段階です。実例を上げると亀甲文字です。 

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 亀甲文字は、絵文字のようでありますが抽象性も高く、文字と呼んでもよい理性性を示しています。この亀甲文字が抽象性を持っているように、モダンアート=近代芸術は、抽象へ向う流れであったのであり、それはレオナルド・ダ・ヴィンチに代表されるルネッサンス以来の手書き写真のようなリアリズム絵画というものを、文字の発生のプロセスように抽象の理性の高みへと高める事を目指した芸術運動であったと言えます。

 フランスの第2次世界大戦後のアーティストのジャン・デビュッフェは、子供のつくる美術や、「未開」人がつくった美術、精神障害者などによる絵画を、「アール・ブリュット=生(き)の芸術と呼んで賛美しました。つまりこうしたアール・ブリュットを、《原芸術》として見る見方は、ピカソがアフリカの黒人彫刻に影響を受けたのをはじめとして、様々なプリミティブアートの影響をモダンアートは受けているので、こうしたものを《原芸術》として考える思考は20世紀には強くあったのは確かなのです。
 こうした見方は社会的な一般性を形成して説得力の高いものではあります。
 が、それを知っていてなお、彦坂尚嘉が芸術の起源とも言うべき《原芸術》というのは、自然や未開、そして野蛮とは一線を画した、文明化の初期段階にこそ、存在する、と考えるのです。その最も分かりやすい例が亀甲文字なのです。
 あるいはギリシアの初期であるアルカイック期の美術に《原芸術》が出現しています。

 
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こうしたアルカイック期の美術は、《第1次元 社会的理性領域》性が
あるのです。

それに対してアール・ブリュット=生(き)の芸術」は、
《第6次元 自然領域》なのです。

どこに《原芸術》を見るのかであって、
微妙な立場の変化ですが、
彦坂尚嘉の見方は、あくまでも初期文明に《原芸術》を見るのです。

縄文土器で言えば、
岡本太郎が激賞した縄文中期の火炎式土器は「アール・ブリュット=生(き)の芸術」であって、後期縄文式土器の地味になったものが、彦坂尚嘉が考える《原芸術》なのです。土偶にも言えて、縄文後期の土偶が《原芸術》なのです。

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後期縄文の土偶
《第1次元 社会的理性領域》の《真性の芸術》
《原芸術》だけがある。
《芸術》《反芸術》《非芸術》《無芸術》《世間体のアート》は無い。

 本論に戻ると、モダンアートの運動というのは、別の言い方をすると、純粋芸術の成立を追求した運動でした。この場合の純粋というのは、蒸留水のような純粋さです。モダンアートというのは、この純粋芸術=純・美術という上部構造の芸術に、限定して行こうという運動であったのです。つまり下部構造の不純・美術という《世間体のアート》を切り捨てて行こうとした芸術運動でした。

 その純粋芸術の頂点のひとつが、ジャクソン・ポロックの「5尋の深み」(1947)という作品でした。そこには《世間体のアート》といったもののかけらも無い、純粋芸術の成立があったのです。


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ポロックの5尋の深み
《超次元》から《第41次元》の《真性の芸術》
《原芸術》《芸術》《反芸術》が有る。
《無芸術》《非芸術》《世間体のアート》が無い。

 栃原比比奈の作品を、こういうモダンアートにあった純粋芸術の追求と、そしてその結果としての《世間体のアート》との分裂として語らないとならないのです。

 つまりもはや旧派となった現代美術には、この純粋芸術という、《世間体のアート》を切り捨てる事を、芸術の成立とする志向性が張り付いているのです。

 それに対して、1991年以降の新しい現代アートには、《非芸術》というデザイン性を重視した《世間体のアート》だけで良いとするアート観が、強くあるのです。つまりモダンアートの純粋主義を否定した転倒の形です。


 しかし、こういう《非芸術》や《無芸術》を重視した《世間体のアート》の台頭は、1975年のアメリカのベトナム戦争敗戦以降に始まっています。その1980年代美術の多くは、しかし長続きする事無く、崩壊して行ったのです。
 同じ現象は、この1991年から、2008年のリーマン破綻の間の現代アートの根拠無き熱狂に見られたのですが、この多くも、1980年代美術と同様に崩壊淘汰されるのではないのか?

 つまり2010年代の、不況化の美術は、《原芸術》と《世間体のアート》の統合への問題として語り、追求されないと、耐久性のある《真性の芸術》の情報化社会の芸術/アートは、成立しないのではないのか?
 彦坂尚嘉が、追求するのは、こうした《純粋芸術》と《大衆芸術=世間体のアート》の同時表示の作品の可能性の問題なのです。そうした可能性として栃原比比奈の作品の2重性を評価するのです。

つまり栃原比比奈の作品は、純粋芸術ではなくて、美術の下部構造である《世間体のアート》と、上部構造である純粋芸術の、両方を統合する性格を持っているのです。
 

◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆

 比比奈(ひいな)は、1997年に多摩美術大学絵画科油画に入学して、
大学4年生の2000年から中野区の知的障害者施設でスタッフとして働き、ダウン症や自閉症、重度の知的障害者などが絵を描くプロセスとその作品の研究しています。

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知的障害者の絵の芸術分析
《第6次元 自然領域》のデザイン的エンターテイメント
《原芸術》《芸術》《反芸術》《無芸術》は無い。
《非芸術》と《世間体のアート》が有る。

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知的障害者の絵の芸術分析
《第6次元 自然領域》のデザイン的エンターテイメント
《原芸術》《芸術》《反芸術》《無芸術》は無い。
《非芸術》と《世間体のアート》が有る。

 この学問的な研究は2001年に多摩美術大学を卒業しても2003年まで続いていますが、これら障害者の絵画には、障害ごとに共通する構造的な特徴が現れている事を発見し、この発見で、ひとつの結論に達して研究を終えます。 
 
 比比奈(ひいな)の作品にある「できやよい」や「草間彌生」といった《ヤヨイ系》の感覚は、この《障害者》の美術に芸術の根拠を見る試みをくぐっているところにあると言えるかもしれませんが、作品の方向は《ヤヨイ系》とは反対の《理性》に芸術の根拠を見いだして行く運動に反転するのです。


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草間弥生の芸術分析
《第6次元 自然領域》のデザイン的エンターテイメント
《原芸術》《芸術》《反芸術》は無い。
《非芸術》《無芸術》と《世間体のアート》が有る。


 ですから比比奈(ひいな)の点描を執拗に打つ事で成立する絵画は、「草間彌生」的というよりは新印象派のジョルジュ・スーラや、スーラの影響ではなく独自に点描画法に達した岡鹿之助の系譜と言うべきものです。

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ジョルジュ・スーラグランド・ジャット島の日曜日の午後1884年 – 1886年
《第6次元 自然領域》のデザイン的エンターテイメント
《原芸術》《芸術》《反芸術》は無い。
《無芸術》《非芸術》《世間体アート》が有る。


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岡鹿之助『遊蝶花』(1951)
《第1次元 社会的理性領域》の《真性の芸術》
《原芸術》《芸術》《反芸術》《無芸術》《非芸術》《世間体のアート》のすべてが有る。


 栃原比比奈の点描絵画には、自らの比比奈(ひいな)という名の起源である「比比奈遊び」という男雛と女雛をくっつける遊びが持つ性的な連想が顔を覗かせるのですが、同時に非在感や非実体性を持っていて、現代的な理性脳が持つニヒリズムの空無の感覚があります。

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栃原比比奈 「ヘソの絵画」 キャンバスに油彩 2001年 1620×1350㎜
《第41次元》〜《超次元》の《真性の芸術》
《原芸術》《芸術》《反芸術》《無芸術》《非芸術》《世間体のアート》の
すべてがある。

 一方、比比奈(ひいな)は、大学卒業後に文房具などステイショナリーグッズの会社であるSan-X/サンエックス(株)にキャラクターデザイナーとして入社するのですが、今回出品する「COCKY(コッキー)シリーズ」は、入社試験のための作品として生み出されたキャラクターでありました。

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栃原比比奈 「コッキーの窓」 紙にアクリル 全21枚 2000年 180×195㎜

《第41次元》〜《超次元》の《真性の芸術》
《原芸術》《芸術》《反芸術》《無芸術》《非芸術》《世間体のアート》の
すべてがある。 




 COCKYは、臼井儀人の『クレヨンしんちゃん』や、駅型ショッピングセンターの株式会社ルミネのキャラクターである「ルミ姉」を連想させるネガティブ・キャラです。

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臼井儀人の『クレヨンしんちゃん』

《第41次元 戦争領域》のデザイン的エンターテイメント
《原芸術》《芸術》《反芸術》《無芸術》は無い。
《非芸術》《世間体のアート》が有る。


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『ルミ姉』

《第41次元 戦争領域》のデザイン的エンターテイメント
《原芸術》《芸術》《反芸術》《無芸術》は無い。
《非芸術》《世間体のアート》が有る。



 「COCKY(コッキー)シリーズ」は入社した当時のSan-Xの専務取締役であった片桐 勇氏に評価されて、栃原はSan-Xに入社することになるのですが、「COCKY(コッキー)シリーズ」は、そのあまりのネガティブ・キャラのために、商品としては実現されずにお蔵入りになりました。それもあって2年10ヶ月でSan-Xを退社して、油彩画家としてのデビューを目指す事になります。

 比比奈(ひいな)が《世間体のアート》に接しているのは、このSan-X/サンエックス(株)にキャラクターデザイナーであったことによって培われているのです。しかしそれは《世間体のアート》といっても、「COCKY(コッキー)シリーズ」がネガティブであったが故に、正確には《反芸術》という意味での《反-世間体のアート》であったのです。
 しかし《反芸術》と《芸術》が同じ銅貨の裏表であるように、《世間体のアート》と《反-世間体のアート》は銅貨の裏表であって、同位なのです。
 《反-世間体のアート》性をもっとも示していたのは会田誠とか、村上隆だったのですが、この
《反-世間体のアート》というのは、実は逆立した《世間体のアート》に過ぎなかったのです。

【続きは下記をクリックして下さい】
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 そもそも20世紀のモダンアートというのは、実は当初から評判が悪くて、その事実は、スペインの哲学者ホセ・オルテガ・イ・ガセトの芸術論集『芸術の非人間化』に書かれています。

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 オルテガは、大衆を批判して貴族主義の立場をとって哲学者であって、芸術的にもモダンアートの反大衆的な高等な芸術を擁護したのです。
 オルテガに言わせれば、大衆というのは野蛮状態への退化であり、文明の中の原始人であると批判しているのです。
 今の人たちは、モダンアートが実は反-大衆的で、大衆の評判が悪かったことを忘れている様なところがありますが、モダンアートの抽象美術や概念芸術へと傾斜して行く運動は、反-大衆的であったのです。
 そのことは、実は大衆に分かる美術、それを彦坂尚嘉的に言えば《無芸術》や、《非芸術》性を切り捨て削除して行く運動だったのです。

理性脳

《原芸術》
《芸術》
《反芸術》
◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆
無芸術
《非芸術》
《世間体のアート》

原始脳



 比比奈(ひいな)は、一方では点描を駆使した抽象性のある美術をつくり、もう一方では「COCKY(コッキー)シリーズ」や風景画のような明快な具象画を描いています。つまり理性脳と原始脳、あるいは《原芸術》と《世間体のアート》という、相反する対極のものを同時表示しているアーティストなのです。

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 《世間体のアート》というのは、《無芸術》と《非芸術》の2つの芸術性を持っています。

 《無芸術》というのは装飾美術や、性的なヌードのような美術ですが、こうした官能性の表現です。代表的なアーティストとしては、マティスがいます。


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マティス 「ブルーヌード」1952年
《第1次元 社会的理性領域》の《真性の芸術》
《原芸術》、《非芸術》《無芸術》《世間体のアート》がある。
《芸術》《反芸術》は無い。


《非芸術》というのは、デザイン的な表現ですが、もっと広範囲であって、美術作品をシニフィエ(記号内容)的に理解する領域です。つまり社会的に、普通の人が芸術を理解する散文的な領域が入ります。代表的なアーティストとしてはマレーヴィチがいます。

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マレーヴィチ 黒の正方形(1915年頃)
《第6次元 自然領域》のデザイン的エンターテイメント
《原芸術》《芸術》《反芸術》《無芸術》は無い。
《非芸術》《世間体のアート》は有る。



《世間体のアート》

 アートという下部構造を成立させている《無芸術》や《非芸術》の根本原理として《世間体のアート》というものがあるのです。
 
 《世間体》というのは、「社会の目」「他人の目」です。他人にどう思われるんだろう?
こんなことして大丈夫だろうか?変に思われるんじゃないだろうか? と心配して生きる「社会的な視点からの自己のみなされ方」に価値基準を置く、多くの人々の心的な領域です。世間に対して体面・体裁をつくろい、恥ずかしくない行動をとろうとする規範意識―それが世間体であるのです。

 つまり自分の意志や気持ちよりも、他人の目を気にして、行動や考え方を選択するようになっている世界です。唯一絶対神をもたない日本人は、世間体を価値規準とし、世間なみを保つことに心を砕いてきたのです。


 そうした社会の目を意識し、世間体を気にする背景には“恥ずかしい”という感情が隠れているのです。「世間様に恥ずかしくない生活をしなければ」
とか
「そんなことして、お前は恥ずかしくないのか」
とか言う、社会的地位や名誉、学歴、家柄による判断基準。分かりやすい肩書きが最優先されている価値観です。

 社会的に有名だとか、学歴だとか、値段が高いとか、偉い美術家だとか、文化勲章などの勲章をもらっているとか、芸術院会員だとか、大学教授のアーティストであるとかいう、そういう社会的な認知としての芸術領域です。人格的な成長によって獲得される《真性の人格》は含まれてないのです。テレビのワイドショーに準ずるモラルやマナーが、すべてであるかのような、そういう「恥の文化」が、《世間体のアート》を作り出しています
 
 つまり《原芸術》に基盤を置くようなモダンアート=現代美術と、ソヴィエトが崩壊した1991年以降の、《世間体のアート》に基盤を置くような、ポストモダンの現代アートの2つがあるのですが、栃原比比奈(ひいな)の美術作品は、この両方に分裂しつつ、両方を同時表示しようとする作品なのです。

ジギル博士
理性脳

《原芸術》
《芸術》
《反芸術》
◆ ◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆
無芸術
《非芸術》
《世間体のアート》

原始脳
ハイド氏




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栃原比比奈 「きょううつすあすのうつそみ」キャンバスに油彩 1994年

《想像界》の眼で《超次元》〜《第41次元》の《真性の芸術》
《象徴界》の眼で《第21次元 愛欲領域》の《真性の芸術》
《現実界》の眼で《《超次元》〜《第41次元》の《真性の芸術》

《原芸術》《芸術》《反芸術》《無芸術》《非芸術》《世間体のアート》
のすべてが有る。


上に掲載した上に掲載した作品は、栃原比比奈が高校生の時に描いたものです。風景画と静物画が合体しています。高校生が描いたとは思えない力の入った佳作です。

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栃原比比奈 「みずうみ」

《想像界》の眼で《超次元》〜《第41次元》の《真性の芸術》
《象徴界》の眼で《第21次元 愛欲領域》の《真性の芸術》
《現実界》の眼で《《超次元》〜《第41次元》の《真性の芸術》

《原芸術》《芸術》《反芸術》《無芸術》《非芸術》《世間体のアート》
のすべてが有る。

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栃原比比奈 「みずうみ」

《想像界》の眼で《超次元》〜《第41次元》の《真性の芸術》
《象徴界》の眼で《第21次元 愛欲領域》の《真性の芸術》
《現実界》の眼で《《超次元》〜《第41次元》の《真性の芸術》

《原芸術》《芸術》《反芸術》《無芸術》《非芸術》《世間体のアート》
のすべてが有る。

これら2枚の風景画は、最近の2008年に描いたもので、
この時期、栃原比比奈は、結婚した元の夫のドメスティック・バイオレンス(モラルハラスメント)に苦しめられて、離婚を考えて、別居をして、その不幸の中で描いていた絵画です。
同じ時期にもう一枚白っぽい風景画もあります。

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栃原比比奈 「さきゅう」

《想像界》の眼で《超次元》〜《第41次元》の《真性の芸術》
《象徴界》の眼で《第21次元 愛欲領域》の《真性の芸術》
《現実界》の眼で《《超次元》〜《第41次元》の《真性の芸術》

《原芸術》《芸術》《反芸術》《無芸術》《非芸術》《世間体のアート》
のすべてが有る。

栃原比比奈は、そういう意味では様々なタイプの絵画を描くのですが、
その中で、点描の作品には、独特のあるネットのような感覚があります。

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未完


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未完

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未完

このネットの感覚の点描描法は、実はアルミニウムとカーゼでつくった
ネットの彫刻があったのです。

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栃原比比奈「ネット空間」1999年 アルミニウム ガーセ、接着剤

《第1次元 社会的理性領域》の《真性の芸術》
《原芸術》《芸術》《反芸術》が有る。
《非芸術》《無芸術》《世間体のアート》は無い。



今回の栃原比比奈の個展は、初の第1回個展であります。
「はじめにすべてありき」と言いますが、
さまざまな要素の作品が、絡み合うように存在していると言えます。

現在32歳の栃原比比奈が、2010年代にどのような作品を展開して行くにしろ、複雑な統合性をもった作品を押し出して行く作家であると言えるように思えます。




タグ:栃原比比奈
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symplexus

高校時代の作品,その完成度は同世代を遥かに越えて
今を暗示するかのようで本当に驚きました.街の上空に
うねる雲,よく観るとその不安と緊張は室内の総てに浸透する
エーテルのようです.
2008年,作者は同じエーテルのなかで呼吸しながら,未知の,
それでいてどこか見慣れたかのような不思議な「湖」に到達しました.
静寂のみが沈積し,喧騒を浮沈する人影が消えた湖畔に
死が懐かしさと共存するような美しさを感じるのは僕だけでしょうか.
それは砂丘の持つ魅惑でもあるでしょう.
 同じ作者の手になる「ユルキャラ」にも繋がりそうなシリーズから
聞こえてくるもの,それはどこか優しさへの希求が悲鳴に変わる
瞬間の声ともいえそうです.
 しかしこの執拗な点描!繊細と強靭がせめぎ合いながら
共存する一筋縄ではいかない世界の登場です.

伊東さん,斉藤さん,そして今回の栃原さんと稀有の若い才能
を発掘する彦坂さんの情熱に脱帽です.
by symplexus (2010-01-02 22:09) 

ヒコ

symplexus様
コメントありがとうございます。
彼女の場合には、ホームページの更新のボランティアで来てくれて、話をしていて、作品を見ないで決めています。顔の人相見で決めているのです。私の中には、人格構造と作品構造は、ある程度一致しているという判断があります。人格的に《第41次元》から《超次元》をもっていて、新しい人格であったのです。
by ヒコ (2010-01-03 21:01) 

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