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ヌード写真と《近代》/小橋めぐみとマリリン・モンロー(改題) [アート論]

51OuiLTQsxL.jpg


コメント 3

白蓮

実は小橋めぐみが脱いだのは結構ショックでした。
想像界の眼で見て清純派だったからです。
芸能界で生きてゆく為、止む無く脱いだという印象がありました。
彼女の裸にエロスは感じられません。
技術的に脱いだだけだからなのでしょうか?
ほかにもこの人、何故脱いだのか分らないといった印象を与える女優が何人かいます。
黒谷友香
http://farm4.static.flickr.com/3289/2709030419_67b9772b35.jpg
裸にはなっていますが全く色気がありません。
伊藤歩
http://www.h-omoide.com/pukiwiki/?plugin=attach&refer=%E4%BC%8A%E8%97%A4%E6%AD%A9&openfile=itoayumi03b.jpg
単なる裸体であって色気はないです。

by 白蓮 (2009-12-28 11:37)  


 



白蓮様

コメントありがとうございます。
結果論なので、言っても仕方がありませんが、黒谷にしても、伊藤にしても《象徴界》に《第21次元 愛欲領域》しかないのですね。

 しかし私の知人でも《象徴界》が《第21次元》しかない人がいますが、しかしヌードになっているわけではありません。

 そういう《第21次元》の人は目先の直接性が強いのです。自己満足をストレートに追いかけていて、射程が短いのです。

 ですので、女優という職業と競争の中で、安易なところに流れると言う程度でヌードになっているのかもしれません。
 
by ヒコ (2009-12-29 10:28)  

 

今回の美人の格付けは非常に興味深いですね。
裸婦画がそうであるように小橋めぐみの裸には確かにエロスが感じられません。
彼女に限らずヌードや性的魅力を売りにしているモノが逆にエロスが皆無というような事が多い様に思います。
フェティシズム的な要素が無いからなのでしょうか? 
by ぽん (2009-12-29 03:17)  

 


ぼん様

たいへんに、興味深いご指摘、ありがとうございます。
小橋めぐみの裸に、エロスが感じられないというのは、
いろいろな理由があるにしても、
彦坂尚嘉的な視点から言うと、それは《想像界》のヌードではなくて、
《現実界》のヌード写真だからです。

fuka_070.jpg

小橋めぐみのヌード写真

《想像界》の眼で《第6次元 自然領域》のデザイン的エンターテイメント
《象徴界》の眼で《第6次元 自然領域》のデザイン的エンターテイメント
《現実界》の眼で《第6次元 自然領域》のデザイン的エンターテイメント

《現実界》のヌード写真
液体(=近代)写真

《気晴らしアート》《ローアート》

シニフィエ(記号内容)のヌード
《原始平面》 『ペンキ写真』

【B級ヌード写真】

◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆

《原芸術》《芸術》《反芸術》《無芸術》は無い。
《非芸術》《世間体のアート》は有る。

ヌード写真が、《現実界》のヌード写真になっているのです。
しかも《原始平面》です。
ですから、小橋めぐみのヌードは、トータリティはなくて、
肩から臀部にかけての楕円形のフォルムが画面から飛び出していて、
うつむいた顔とは、無関係になっています。

benefits supervisor.jpg

そしてこの肩からのフォルムが画面から飛び出るように作られている
のです。それはルシアン・フロイドのヌードにも見られる『ペンキ絵』の
特徴です。
写真でも、この『ペンキ絵』の構造が出現しているのは面白い事です。

白く飛んでしまっている向こう側の足も、
別の存在になっていて、小橋めぐみのトータルな肉体性は、
バラバラに無関係に解体され並列化されているのです。

下の画像は、コントラストを41上げたものです。


fuka_071.jpg

せっかく《現実界》のヌードを撮ったのですから、
情報化社会の表現として、気体(=情報化社会)写真で
あって欲しかったのですが、古い《近代》の液体写真というのは、
いただけません。
全体に【B級ヌード写真】であって、ヌード写真として落ちるのです。

そこで彦坂尚嘉が、写真を改竄して、
情報化社会の《サントーム》のヌード写真を作ってみました。
改竄が良い事でないのは知っていますが、
今日のデジタル時代の表現の可能性の幅を知っていただくと言う、
公共の利益を目指す行為ですので、お許しください。
情報化社会の批評の新領域の提示なのです。


fuka_075のコピー.jpg

彦坂尚嘉の改竄写真の芸術分析

《想像界》の眼で《超次元から第41次元》の《真性の芸術》
《象徴界》の眼で《超次元から第41次元》の《真性の芸術》
《現実界》の眼で《超次元から第41次元》の《真性の芸術》

《想像界》《象徴界》《現実界》《サントーム》の4界をもつ
重層的なヌード写真

気体/液体/固体/絶対零度の4様態をもつ多層的なヌード写真

《シリアス・アート》《ハイアート》

シニフィエとシニフィアンの同時表示ヌード
《透視画面》、オプティカル・イリュージョン

【A級ヌード写真】

◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆

《原芸術》《芸術》《反芸術》
《無芸術》《非芸術》《世間体のアート》のすべてが有る。



fuka_080.jpg

小橋めぐみのヌード写真                 彦坂尚嘉の改竄写真の芸術分析

《第6次元 自然領域》のデザイン的エンターテイメント  《超次元から第41次元》の《真性の芸術》

《現実界》のヌード写真                《想像界》《象徴界》《現実界》《サントーム》の
                            4界をもつ重層的なヌード写真

液体(=近代)写真                   気体/液体/固体/絶対零度の4様態をもつ
                            多層的なヌード写真

《気晴らしアート》《ローアート》           《シリアス・アート》《ハイアート》

シニフィエ(記号内容)のヌード            シニフィエとシニフィアンの同時表示ヌード

《原始平面》 『ペンキ写真』              《透視画面》、オプティカル・イリュージョン

【B級ヌード写真】                  【A級ヌード写真】

◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆

《原芸術》《芸術》《反芸術》《無芸術》は無い。    《原芸術》《芸術》《反芸術》《無芸術》

《非芸術》《世間体のアート》は有る。         《非芸術》《世間体のアート》のすべてが有る。


彦坂尚嘉が自分で改竄して、自分で芸術分析をしているのですから
典型的な我田引水に見えます。
しかし彦坂尚嘉は美術家であり、制作者なので、
制作の質のコントロールとして《言語判定法》を開発しているので、
実際の作業に結びつく技術が、《言語判定法》であり、
芸術分析なのです。

さて、私が改竄に使ったのはPhotospe CS2 ですが、
その威力はすごくて、すでに有る写真での、このように、
変更ができるのです。

特に驚くのは、《気晴らしアート》が《シリアス・アート》にと
変わる事です。

写真に限らず、表現の質を決定している項目は、非常に多いのですが、
改竄という限られた条件でも、かなりの事ができる時代に
なったのです。

しかしPhotospe CS2 は、ある意味で、何でもできるので、
何をしたら良いのか、そしてどこで止めて決定したら良いのか、
そのコントロール技術が難しいのです。

そこで《言語判定法》は、非常に有効な技術として機能します。

Photospe CS2 の使い方を教えるだけで、
写真家のクオリティは変化するのです。
教育は重要なのです。

来年度の立教大学では、静止画の講義もやるように大学から
言われていますので、
Photospe CS2の使い方も教えようと思います。
興味のある方は、来て下さい。
大学には、科目等履修生の制度があって、正式に聴講できます。
正式な学歴としても機能しますので、
興味のある方はご検討ください。

本年度も、田嶋奈保子さんと、山口敏郎さんが、
正式に履修して下さいました。



【続きは下記をクリックして下さい】
小橋ひろみのヌード写真の特徴を知るために、
昔のマリリン・モンローのヌード写真と比較してみましょう。

lindsay-lohan-marilyn-monroe.jpg

《想像界》の眼で《第1次元 社会的理性領域》の《真性の芸術》
《象徴界》の眼で《第1次元 社会的理性領域》の《真性の芸術》
《現実界》の眼で《第1次元 社会的理性領域》の《真性の芸術》

《想像界》のヌード写真
液体(=近代)写真

《気晴らしアート》《ローアート》

シニフィアン(記号表現)のヌード写真

《透視画面》 オプティカル・イリュージョン

【A級ヌード写真】

◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆

《原芸術》《反芸術》は無い。
《芸術》《無芸術》《非芸術》《世間体のアート》は有る。

マリリン・モンローのヌード写真を芸術分析してみると、
《第1次元 社会的理性領域》の《真性の芸術》になっている
ことに、驚きます。【
A級ヌード写真】なのです。


小橋とモンローの2枚のヌード写真を比較してみます。

小橋マリリン.jpg






《第1次元 社会的理性領域》の《真性の芸術》    《第6次元 自然領域》のデザイン的エンターテイメント

《想像界》のヌード写真               《現実界》のヌード写真

液体(=近代)写真                  液体(=近代)写真

《気晴らしアート》《ローアート》          《気晴らしアート》《ローアート》

シニフィアン(記号表現)のヌード写真        シニフィエ(記号内容)のヌード写真

《透視画面》 オプティカル・イリュージョン     《原始平面》『ペンキ写真』    

【A級ヌード写真】                 【B級ヌード写真】

◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆

《原芸術》《反芸術》は無い。            《原芸術》《芸術》《反芸術》《無芸術》は無い。

《芸術》《無芸術》《非芸術》            《非芸術》《世間体のアート》は有る。
《世間体のアート》は有る。


モンローのヌード写真は、昔のピンナップの延長写真ですから、
当然のように《想像界》のヌード表現です。
小橋のそれが《現実界》のヌードであるのとの、大きな違いです。

小橋めぐみのヌード写真がシニフィエ(記号内容)のヌードで
あったのに対して、
モンローのそれはシニフィアン(記号表現)のヌード写真です。
この辺も時代の構造の差であって、
近代という物質文明の表現は。ラカンが主張したように《シニフィ
アン連鎖》なのです。
一方、情報化社会の小橋のヌードは、
《シニフィエ連鎖》で作られているのです。

写真構造的にも、モンローは《透視画面》でオプティカル・
イリュージョンが成立しています。
【A級ヌード写真】なのです。

今の人から見ると、おとなしくて、つまらないのでしょう。

白蓮さんのご指摘のように、
小橋めぐみに限らないで、
黒谷友香や、 伊藤歩にしても《現実界》のヌード写真に
なっているのです。

2709030419_67b9772b35.jpg

黒谷友香のヌード写真

《想像界》の眼で《第6次元 自然領域》のデザイン的エンターテイメント
《象徴界》の眼で《第6次元 自然領域》のデザイン的エンターテイメント
《現実界》の眼で《第6次元 自然領域》のデザイン的エンターテイメント

《現実界》のヌード写真
液体(=近代)写真

《気晴らしアート》《ローアート》

シニフィエ(記号内容)のヌード
《透視画面》 深い遠近画法空間

【B級ヌード写真】

◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆

《原芸術》《芸術》《反芸術》《無芸術》は無い。
《非芸術》《世間体のアート》は有る。


《現実界》というのが何か?
という定義は、ラカンの言っているのと、
私が《言語判定法》で使っているのは、ずいぶんと違いますので、
その辺は彦坂尚嘉は知っていて、使っていますので、
ご了承ください。

彦坂尚嘉が使っている《現実界》というのは、
それは「現実界」という言葉を使って、
《言語判定法》で測定を繰り返した結果なのです。

禅宗の不立文字による《現実界》の出現を前提にしていて、
宮本武蔵の『五輪書』、
そして数式に基盤を置く近代科学主義が切り開いた領域が、
《現実界》であると考えています。



それは日常語としての「現実」というものとも違っています。
構造的なものです。

建築を見て、この「現実界」という言葉を使って
《言語判定法》で測定すると、線的で力学的な構造が、
《現実界》である事を示します。

分かりやすく言えば、科学の視線が切り開く、
そういう領域です。

そこでは意味は成立しません。

《現実界》というのは意味が成立しない場所であるというのは
重要な認識です。
ニーチェの言ったニヒリズムというのは、近代の科学的な
《現実界》特有の世界なのです。

基本的に液体化して河のように流れる《現実界》の時空間としての
《近代》という時代の問題が、ニーチェが問題にしたニヒリズムの
問題なのです。。

この《近代》の《現実界》の通俗化として、
こうした小橋めぐみや、黒谷友香の、色気=想像界の無いヌード写真
が出現していると、私は考えます。

これらの写真が液体=近代写真であるのは、そうした理由なのです。

つまり一昔前の《近代》を追憶する構造の中で、
《現実界》のヌード写真が出現して来ているのです。

それは近代のピンナップ的なイメージ主義のヌード写真とは、
違う構造なのです。

《近代》から、情報化社会としての脱-近代になったことが、
こうしたヌード写真の変貌を生むと同時に、
《性》そのものの意味の無意味化を生み出しているのです。

《性》は、もはや新しい生命を生み出すという神聖な意味を失った
かのように、高度消費社会の中で消費されていくのです。

しかし消費そのものは、実は《近代》のものであり、
そして《現実界》のニーチェ的なニヒリズムもまた《近代》の
残映に過ぎません。

現在の情報化社会の重要な地点は、サントームであって、
新しいマネージメントとしての《性》であり、
新しいコンピューター時代の神聖性の出現なのです。

情報化社会では、《現実界》のニヒリズムは克服され、
ニーチェの予言した「新しい諸価値」が組み立てられて行くのです。

そこでの《性》は、「新しい価値」として、再度、
《サントーム》の時空間に、神聖なものとして再生するのです。

その時が来るまで、まだ時間がかかるにしても、
未来において《性》の意味と神聖性は再生するのです。


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DJピロピロ大木裕之

性の神聖化と建築からめた展覧会、アルテ本島で彦坂さんと梅ちゃんと一緒にやってみたいなあなんて思いました大晦日の朝ですよ!
by DJピロピロ大木裕之 (2009-12-31 08:39) 

ヒコ

大木裕之様
コメントありがとうございます。
ご提案面白く思います。
アルテさんに相談してみましょう。
by ヒコ (2009-12-31 12:36) 

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