SSブログ

ミケランジェロと《社会芸術》(1)(校正1) [アート論]

ミケランジェロは、高校時代の友人であった画家の遠藤原三(光風会評
議員)が好きで、
かれが大著の画集を買っていて、高校の時から見ていました。
私はイタリアには3回行っていて、
代表作の実物のほとんどを見て来ています。

572px-Michelangelo's_Pieta_5450_cropncleaned.jpg
ミケランジェロ「サン・ピエトロのピエタ
《想像界》の眼で《第6次元 自然領域》のデザイン的エンターテイメント
《象徴界》の眼で《第6次元 自然領域》のデザイン的エンターテイメント
《現実界》の眼で《第6次元 自然領域》のデザイン的エンターテイメント

《想像界》の美術。
固体美術。

《気晴らしアート》《ローアート》

シニフィエ(記号内容)の美術。

原始立体。お人形。【B級美術】

《原芸術》《芸術》《反芸術》は無い。
《非芸術》《無芸術》《社会芸術》である。
◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆

《原彫刻》《彫刻》《反彫刻》は無い。
《非彫刻》《無彫刻》《社会彫刻》である。

このバチカンにあるピエタは、
《6流》のお人形にすぎなくて、彫刻になっていないのです。

若きマリアの身体にしても、布のシワは良く彫れていますが、
しかし布のシワの向こう側にあるはずのマリアの肉体は、
まったく彫れていないのです。

キリストの腰骨の構造が彫れていなくて、
下肢の付き方も不自然です。

マリアの骨盤も彫れていなくて、
トータルに見ても、マリアの腰はうまくいっていません。
人体彫刻として、基本を欠いています。

それは実物を見て、まず、感動しないという直接性で来ます。
ミケランジェロの彫刻は、ただの通俗のお人形なのです。

同様のことは、高村光太郎の彫刻にも言えて、
これも《6流》の人形に過ぎないのです。

cont_494_1.jpg

高村光太郎「手
《想像界》の眼で《第6次元 自然領域》のデザイン的エンターテイメント
《象徴界》の眼で《第6次元 自然領域》のデザイン的エンターテイメント
《現実界》の眼で《第6次元 自然領域》のデザイン的エンターテイメント

《想像界》の美術。
固体美術。

《気晴らしアート》《ローアート》

シニフィエ(記号内容)の美術。

原始立体。お人形。【B級美術】

《原芸術》《芸術》《反芸術》《無芸術》は無い。
《非芸術》《社会芸術》である。

◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆

《原彫刻》《彫刻》《反彫刻》《無彫刻》は無い。
《非彫刻》《社会彫刻》である。


高村光太郎のこの有名な手で、一番ひどいのは、手首です。
手首が、この彫刻では作られていない腕の部分への延長性が、
まるで作られていない。

指の肉の中にあるはずの骨の骨格関係も、まるで構造化されていなくて、
親指と、人差し指の関係もできていない。
彫刻としては、《透視立体》性を欠いていて、
《原始立体》に過ぎないのです。

ミケランジェロには《無芸術》《非芸術》《社会芸術》の
3つの芸術性がありましたが、
高村光太郎には、《無芸術》性が無くて、
《非芸術》と《社会芸術》性だけです。
つまり高村光太郎は、ミケランジェロよりも落ちるのです。

これらとの違いを明らかにするために、ドナテッロを見ておきましょう。
イタリアに旅行して感動するのは、
ドナテッロの彫刻の美しさと圧倒性です。

Donatello-stgeorge.jpg

ドナテッロ「St. George

《想像界》の眼で《超次元〜第6次元》の《真性の芸術》
《象徴界》の眼で《超次元〜第6次元》の《真性の芸術》
《現実界》の眼で《超次元〜第6次元》の《真性の芸術》

想像界》《象徴界》《現実界》の3界をもつ重層的な表現。
気体/液体/固体/絶対零度の4様態をもつ多層的な表現。

《シリアス・アート》《ハイアート》

シンーニュの美術。

《透視立体》。彫刻。【A級美術】

《原芸術》《芸術》《反芸術》
《無芸術》《非芸術》《社会芸術》
のすべてがある。

◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆

《原彫刻》《彫刻》《反彫刻》
《無彫刻》《非彫刻》《社会彫刻》
のすべてがある。

St_George_Donatello_Orsanmichele_n1.jpg

Donatello_St_George_1416_marble.jpg

この像の足下のレリーフです。

Donatello_George_relief.jpg

St_George_and_the_Dragon_Donatello.jpg


ドナテッロの方が、ミケランジェロよりも前のひとです。
ドナテッロは、1386年 - 1466年
ミケランジェロが、 1475年 - 1564年。
誕生年での差は89年あります。

つまりミケランジェロは、ドナテッロの影響を受けていたのです。

ドナテッロの方は、典型的な《超1流》の彫刻家で、
ミケランジェロは、典型的な《第6次元》《6流》の彫刻家です。

この差があるからこそ、ミケランジェロの方が圧倒的に有名で、
後世のさまざまな人々に大きな影響も与えているのです。

ここに芸術の秘密があります。

つまり、《社会芸術》の方が、社会的には大きな力を持っているのです。

《原芸術》
《芸術》《反芸術》
◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆
《無芸術》《非芸術》
《社会芸術》

こういう芸術の上部構造と、下部構造があって、
社会的には、下部構造だけを満たす《第6次元》の
ミケランジェロが、社会的な勝利を納めると言う結果に
なるのです。

だから、「下部構造だけで良いのだ」と考える人は
多くいます。

私が座談会を美術手帖でやった会田誠さんもそういう
下部構造アーティストですが、
彼も社会的に勝利を収めた割には、不安があって、
芸術が分からないという不安があるのです。

芸術の秘密は、下部構造の勝利者には、理解ができないもの
なのではないでしょうか。


nice!(3)  コメント(6)  トラックバック(0) 
共通テーマ:アート

nice! 3

コメント 6

北村

ミケランジェロは実際に解剖をやっていた程ですから 解剖学を理解しているのだろうなとずっと思っておりました。解剖学の書籍にも例に載せられておりますから 疑いもなく過ごしておりました。
芸術には解剖学的な正確さがないと成立しないものなのでしょうか?
あとドキュメンタリーでミケランジェロは作品を古く見せてロ―マ時代の彫刻だと騙そうとしたり 法王の金を横領したりと 犯罪もやっておりますが これはデザイン性とやはり関係がありますか?
by 北村 (2009-12-30 17:26) 

ヒコ

北村様
コメントありがとうございます。
ミケランジェロが解剖に精通していたと言うことは、そのような研究書が多くある事から、正しいのだろう多思いますが、にも関わらず、彦坂尚嘉の視線で見ると、ダビデにしても《第6次元》で、透視立体になっていなくて、B級彫刻なのです。それは実際に実物を見ても感じる事で、それは私の見たときが、必ずしも正しい位置に設置されていなかった故かもしれないと、当時思った事でした。
モーゼの像についても同様のことが言えて、解剖学的な知識が、必ずしも彫刻作品を透視立体にしないで、むしろ意図的に原始立体の直接性の高い表現を選んでいるのかも、しれません。
 古代彫刻の模造を作る精神と、デザイン性は、関連はあるかもしれません。
 つまり芸術を《世間体のアート》として考えて、その中で組み立てるという事を、ミケランジェロやティツアーノはやって、大成功するのです。それは芸術に対するひとつの答えではあります。
by ヒコ (2009-12-31 00:02) 

北村

以前 ドナテルロと舟越保武さんの比較がなされた際に ドナテルロは人物を四分割してポーズも合成しているが 舟越保武さんはただの素朴なリアリズムだと書かれていたように思います。
ミケランジェロは石に向かって直接彫りはじめたと聞きます。計画があったというよりは 石の中のものを取り出すような感覚です。解剖学的な知識があったゆえに部分部分は正確なのかもしれませんが ト―タルでみると食い違いが出てくるのかもしれません。
今までのblogを拝見しておりましたが ティツィア―ノが下図をかかなかった事や表面的な部分だけで見せかけていた事を考えてみますと 六流のデザインエンターテイメントとは何か多少わかった気がします
会田誠さんが巨大な石膏デッサンをかいた際に選んだのはブルータスでした。やはりデザインエンターテイメントであるから その匂いをかぎとったのかもしれません。ドナテルロの作品のガッタメラ―タやジョルジオではなかったので..
ミケランジェロの作品はB級ホラーでル―ブル美術館関連で 奴隷が使われていましたし 敷居が低いのかもしれません。
by 北村 (2009-12-31 01:41) 

ヒコ

北村様
コメントありがとうございます。
《第6次元 自然領域》や《第8次元 信仰領域》の制作というのは、実は楽しいし、早いのです。量を多く作れます。
計画性や計算性が無いのが多いと思います。音楽家ですとヘンデルやモーツアルトが《第6次元 自然領域》です。ヘンデルは《非芸術》《無芸術》《世間体のアート》で制作していて、《原芸術》性が無いので、制作そのものも早かった様です。モーツアルトも同様で、《非芸術》《無芸術》《世間体のアート》の作曲家で、これで良いと言えば、良いのであります。こうした《第6次元》というのは直接性があるので、教養が無くても分かるので、こういうものを愛する人々が多いのは理解で来ます。
by ヒコ (2009-12-31 12:49) 

北村

解説いただきありがとうございます。前よりは多少なりとも理解が進んだように思います。また質問をさせていただきます。
by 北村 (2009-12-31 15:26) 

ピンときません

ブログを拝見していると分析をイロイロされていて、「分かりやすく」読めるものもあるのですが、この彫刻の比較はピンと来ません。ミケランジェロとドナテルロの人体把握等、彫刻描写、立体の捉え方で言えばたしかにミケランジェロの方が肉体の把握は甘いかもしれませんが。高村光太郎の手は、こうした古典的立体とはまた少し違いませんか。この手は決して正確な肉体表現ではなく、誇張され、手だけを象徴的に扱っていて、つまり手首から後ろの身体についてなんて、あまり意識する必要がないと思うのです。(この手と、ドナテルロの手を比べると、後者の方が甘く見えます。全体としてはドナテルロは石のように堂々としてますが)
本当に高村の手は「人形」に見えますか?現実界とか言うのはともかく、象徴界や想像界とかいうものでも?
超1流より6流が劣っている、とかいう話でもないようですが、もう一度よく実物を見てみてもいいのではないでしょうか。私自身、多分理解しきれてはいないのですが、高村と古典的西洋彫刻を「彫刻」とカテゴライズする際はもう少し繊細に見てみた方が良いと感じます。高村さん自身は全体の把握が上手くいっているか否かを「こなし」という光雲から学んだ江戸の木彫技術で言葉にしていました。読んでいての印象ですが、どうも彦坂さんの見方は「頭」での理解で「身体の感覚」が薄く感じます。眼が強いですね。彫刻家は眼より手で見るそうです。眼で見る景色にも、感触があるそうですよ。画家だって、昔はもっと手で見ていたかもしれません。
それから、これは純粋な興味なのですが音楽で井上陽水みたいなものはどう分析されるのですか?
by ピンときません (2010-02-06 03:18) 

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

トラックバック 0

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。