ツイッター小説 『青空の遅延』9〜16(改稿) [ツイッター小説]
ツイッター小説
彦坂尚嘉・北美紀著
青空の遅延
9から16
23時を過ぎた新宿3丁目丸井のビルの壁面に、プロジェクターが高角度で向けられて映写された。
コンピューターの上に描かれるドローイングが、壁面に白い線を描き出すと、グラフィティの空間が出現する。
単純な顔の絵や文字など原始的なものの方が絵になる。
通りすがりの女性が驚いて立ち止まる。
列の中のシンジ君は、いつにも増してかっこいい。
私服たまらん。
シンジ君のところだけ浮かんで光って見えるみたい。
あれで高校生かよといつも思う。ていうか8コ下かよ。
そこで落ち込む。
ああ、体育の岡崎先生がこっち見てる。ダメ、さとられないようにしないと。
これから4泊五日修学旅行。
10
英里はいつも、ホテルに着いた時点でなにかが終ったと感じてしまう。
一方で広美はガイドブックを見てはしゃぐ。
「あとでここ行こうよ」と言って、カクテルとソファと暗い照明の写真を見せる。
センスがいいジャズが流れるバー。ベタだなあと思いながら、英里は「よさそう」と言って笑った。
OJIMAにUSBを買いに信介は行った。久しぶりに入るNOJIMAは、見慣れない製品があふれていて、頭脳の許容量を超えて、信介は立ち眩みに襲われてしゃがみ込んだ。
小学校1年生の朝礼では、たびたび立ち眩みで座り込んでいたことを思い出した。
あの時と同じ亀裂のまぶしい光が見えた。
11
正子との電話を切って、庄三は疲れを覚えた。
彼女とのコミュニケーションの難しさだけでなく、他人とのすべての会話に面倒臭さ覚えるという疲れだった。
しかし、この嫌になる感覚で止めてしまうのではなくて、そこからもう一度他人に向かって語り始めなければならないという事を庄三は知っていた。
彼女とのコミュニケーションの難しさだけでなく、他人とのすべての会話に面倒臭さ覚えるという疲れだった。
しかし、この嫌になる感覚で止めてしまうのではなくて、そこからもう一度他人に向かって語り始めなければならないという事を庄三は知っていた。
「で食べたわけ、愛ちゃんの手作りクッキー」12
「ほう」
「でもまずかったのよ、これが。しかもレーズン入ってるしね。やめてよ、と」
「きつー」
「いやもう、コンビニとかで買ったやつのがなんぼかマシかと。買ってこい、と」
「ひでー」
「だろ? 食わせるかって話よ」
「いや、お前が」。
え、、、俺?
川を挟んで東側は小規模な工場が点在する下町、西側は近年開発された住宅地で、川岸に建つ高層マンションに吉田浅子は住んでいた。
浅子はベランダから、眼下に広がる下町を眺めるのが好きだったが、入居後半年もしないうちにベランダで眺めを楽しむような住人がマンションにはいないことに気づいた。
目覚ましに起こされたのは7時であった。睡眠不足で苦しい。
ラブラドール犬が、うめき声の様な鳴き声を上げている。ルーカスの容態は悪化していた。
餌と水をやって、眠気と戦いながら外に出て、自転車で駅に向かう。奈保子との約束は11時であった。
13
六本木にある21というデザイン美術館に奈緒子は初めて行った。
暗藤武雄の建築だが、斬新なフリをした凡庸な建物だった。
浅澤曲人というプロダクトデザイナーの展覧会が開かれていたのだが、これもまた、なにか昔のものを見ているような気がして、東京が気抜けして退屈になっているのを感じた。
3年ぶりに夫の故郷に帰省した。
夫も3年ぶりだ。
その夫が、ここに来てから何度か駅の方をぼんやりと見ているのにわたしは気づいていた。
「東京が恋しい?」そう問うと、夫は微笑んだ。
「いや、あそこの煙突がなくなっているから、奇妙だなとね」。
夫はやはりこの街を愛しているとわたしは知った。
14
日が昇ってから8時間、彼は街を歩き続けていた。
歩きたかったからではなくて、止まれなかったのだった。
止まるということは、彼がそれまで蓄積させた黒煙に彼自身が覆われてしまうということだった。
その黒煙とは、彼には所持金がもう300円ちょっとしかないということだった。
六本木にある21というデザイン美術館に奈緒子は初めて行った。
暗藤武雄の建築だが、斬新なフリをした凡庸な建物だった。
浅澤曲人というプロダクトデザイナーの展覧会が開かれていたのだが、これもまた、なにか昔のものを見ているような気がして、東京が気抜けして退屈になっているのを感じた。
3年ぶりに夫の故郷に帰省した。
夫も3年ぶりだ。
その夫が、ここに来てから何度か駅の方をぼんやりと見ているのにわたしは気づいていた。
「東京が恋しい?」そう問うと、夫は微笑んだ。
「いや、あそこの煙突がなくなっているから、奇妙だなとね」。
夫はやはりこの街を愛しているとわたしは知った。
14
日が昇ってから8時間、彼は街を歩き続けていた。
歩きたかったからではなくて、止まれなかったのだった。
止まるということは、彼がそれまで蓄積させた黒煙に彼自身が覆われてしまうということだった。
その黒煙とは、彼には所持金がもう300円ちょっとしかないということだった。
「文章、まずいね!」
「どうする?」
「落とそうか?」。
山口光子は、顔をしかめた。
友美の手を握って来る。
イライラして湿っている皮膚がザラっとぬめって友美にまとわりつく気味の悪さに、思わず光子をにらむ。
「落とせないわよ」
そう言って、友美は、もう一度千葉達雄の原稿を読み始めた。
「どうする?」
「落とそうか?」。
山口光子は、顔をしかめた。
友美の手を握って来る。
イライラして湿っている皮膚がザラっとぬめって友美にまとわりつく気味の悪さに、思わず光子をにらむ。
「落とせないわよ」
そう言って、友美は、もう一度千葉達雄の原稿を読み始めた。
15
越智田誠が、MUSEのチケットを、一般発売前の先行抽選販売で2枚確保したとメールして来てくれた。
ならば2人で行くことになる。
MUSEはボーカルとベースの2人組だから、ちょうど良いのかもしれない。過剰なロマンティズムの音楽を男2人で聞くのも、運命なのかもしれないと一雄は思った。
坂田さんがまたプリプリしはじめた。このままの調子なら、今日上がる前にイヤミの一つでも言われそう。
わたしは最近、そのことに対抗するのがばからしくなっていた。
坂田さんは分かってない。
わたしは仕事をなめてるんじゃなくて、この商品が好きじゃないんです。困ってるのはわたし自身なのに。
16
わたしたちは魔女と言われた。
魔女だからここで働けと、薄暗い地下室に押し込められ、来る日も来る日も洗濯物のアイロンをかけている。
可哀想なアンはずっと泣いている。
でもわたしはここが嫌いではない。
みな美人で優しくて、あのイヤらしい酔っぱらいの父親がいる家よりずっとマシだ。
新宿三丁目のアートカフェは、最後の日ということもあって、盛況だった。
窓から見える樹木は、暗い闇にそそり立っていた。
田口光男は、深夜バスに乗るために、一足先に、カフェを後にした。
また時代はひとつ歯車を回したのだ。
倉敷でまっている直美は、新しい時代を自分に与えてくれるだろう。
越智田誠が、MUSEのチケットを、一般発売前の先行抽選販売で2枚確保したとメールして来てくれた。
ならば2人で行くことになる。
MUSEはボーカルとベースの2人組だから、ちょうど良いのかもしれない。過剰なロマンティズムの音楽を男2人で聞くのも、運命なのかもしれないと一雄は思った。
坂田さんがまたプリプリしはじめた。このままの調子なら、今日上がる前にイヤミの一つでも言われそう。
わたしは最近、そのことに対抗するのがばからしくなっていた。
坂田さんは分かってない。
わたしは仕事をなめてるんじゃなくて、この商品が好きじゃないんです。困ってるのはわたし自身なのに。
16
わたしたちは魔女と言われた。
魔女だからここで働けと、薄暗い地下室に押し込められ、来る日も来る日も洗濯物のアイロンをかけている。
可哀想なアンはずっと泣いている。
でもわたしはここが嫌いではない。
みな美人で優しくて、あのイヤらしい酔っぱらいの父親がいる家よりずっとマシだ。
新宿三丁目のアートカフェは、最後の日ということもあって、盛況だった。
窓から見える樹木は、暗い闇にそそり立っていた。
田口光男は、深夜バスに乗るために、一足先に、カフェを後にした。
また時代はひとつ歯車を回したのだ。
倉敷でまっている直美は、新しい時代を自分に与えてくれるだろう。
昨日に引き続き、本日アップされた分も読ませていただきました。
たくさん書くほど、世界観が立体的になっていくようですね。その奥に潜んでいる明示されない緊張感も高まっていきます。時折、各ブロック全てにという訳ではないのですが、ふとエロティックな印象も受けました。もちろん、それも明示的な表現がある訳ではないのですが。
僕は、ロシアの文芸学者ミハイル・バフチンが、『ドフトエフスキーの詩学』などで主張している「ポリフォニー(多声楽)論」に興味をもって、それを実践しようと試みているのですが、その中で彼は面白いことを言っていました。
それというのは、読者はフローベールの登場人物たちの会話に参加したいとは思わないが、一方、ドフトエフスキーの登場人物は端役に至るまで独自の哲学や人生観を持っているので、読者は彼ら、特に主人公たちと議論がしたくなる、と言うのです。だから、批評家たちがドフトエフスキーについて論じようとすると、いつの間にか、ドフトエフスキーの作家としての個性ではなく、ラスコーリニコフやイワン・カラマーゾフについて論じてしまうと言うのです。
今回のツイッター小説にも、そのような魅力を感じました。この作品の続きや第2弾、今後の展開を楽しみにしています。
ネット世界の中の神について、既に多くの関心が寄せられているのですね。新中世の到来、話は違うかもしれませんが、僕は昨年インド旅行をして、カルチャー・ショックを受けました。それは、夜行列車の中で、向かい側のベッドで寝ていたインド人の男性が、数珠を取り出して祈りを始めたのです。夜も遅かったのですが、1時間ほど目を閉じて、何かを唱えていました。僕は中高とミッションスクールに通っていて、キリスト教のミサや祈祷には慣れていたのですが、それとは質というか、熱意が大きく違って、驚かされました。
近代科学が万能であった時代から、現代はまた変りつつあると思うのですが、そうした日本における宗教の在り方や、情報化社会と神について、また機会がありましたら、お話を聞かせてください。
長文、失礼しました。
by 猪俣和也 (2009-11-29 16:18)
猪俣様
コメントありがとうございます。
私自身は、中学でキルケゴールを読んで以来、初期仏典、フッサール、ラカンと読んで来ていますが、基本にあるのは《近代》個人主義の解体への運動です。
美術作品でも、1973年にはデュエットという作品や、5人組写真集などの作品を展開し、チャンスがあればいろいろな形で試みて来ていて、五十嵐太郎さんとのアートスタディーズという20世紀の歴史の見直しも、そのひとつです。最近でも木村静さんとの【YouTube画像】でのデュエットなどを追求していますが、北美紀さんとのこのツィッター小説というのも、その一貫です。
北美紀さんは、チュネリングを若い時にやっていた方で、そのことを評価して、今回のプロジェクトになりました。
思ったよりも、面白い可能性が見えて、本人たちも興味が深まっています。
情報化社会の神の問題は、すでにいくつかの本が出ているので、基礎文献を紹介しながら、書きたいと思います。
by ヒコ (2009-11-30 00:51)