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デザイン/《非芸術》について [アート論]

1975年にアメリカがベトナム戦争に敗れると、
二つあった《近代》の内の、ひとつの《近代》が終わるのですが、
《近代》が終わると、大きな構造変化が起きます。

美術で言うと、美術というのは、
実は、古い言い方で恐縮ですが、
上部構造と下部構造の2重性で成立していたのですが、
その2重構造が反転するのです。

上部構造というのは、《芸術》と《反芸術》で、
下部構造というのは、《非芸術》と《無芸術》です。

この場合、《芸術》以外の、3つは、
説明が、比較的楽なのです。

《非芸術》というのは、デザインです。
デザインとは何であるのか?
という問いをたてると、
それは「神が世界をデザインした」という意味のデザインです。
今日の言葉で言えば、アーキテクチャーが、デザインです。
つまり構造とか、環境が作られて、
その中を人間が歩き回ると言う意味でのデザインです。
つまり「神が世界をデザインした」という意味で、
世界を作るという事が、デザインです。
その意味で、美術作品がデザインであると言う意味は、
美術作品が作られているという事です。
美術作品が美術作品として作られた限りでは、
実は《芸術》は成立していなくて、
《非芸術》であるという意味です。

団体展の美術作品から、現代美術、そして現代アートの
多くの作品が、デザインでしかないのは、
美術作品が作られると言う段階で止まっているからです。

そういう意味で、モダンアートというのは、
実は美術作品を作ると言う意味での《非芸術》を否定して、
この美術作品としての《非芸術》性を排除することで、
《芸術》を成立させて来たのです。
それが【純粋芸術】というものです。

昨日は美術系ラカンの読書会で、ポロックを取り上げたので、
ポロックで話しますと、1940年代後半のドリッピングの最盛期
作品は、《非芸術》を持っていません。
つまり美術作品としての基本性格であるデザイン性を削除することで、
ポロックのドリッピングは成立しているのです。

さらにポロックのドリッピングは、
《無芸術》性すらをも持っていません。
《無芸術》というのは、美術における官能性/装飾性ですが、
こうしたものをポロックのドリッピング絵画は、
持っていないのです。


繰り返しますと、モダンアートにおける【純粋芸術】というのは、
こうした《非芸術》や《無芸術》を削除することで、
成立していたのです。

それは人間を動物として見ないという事と、平行しているものです。
お産で言えば、無痛分娩がアメリカでは99%と言えるほどに
ひろがり、お母さんの乳房からの授乳は否定されて、
粉ミルクによる人工栄養で育てられるという事態が全面化したのと、
ポロックのドリッピング絵画の《芸術》性というのは、
実は構造としては、重なっていたのです。

つまりそれは、生物としての自然の基盤を否定して、
削除できるという妄執が生み出した、人間主義=ヒューマニズムと、
【純粋主義】と信念が、到達した人工性の高みだったのです。

アメリカがベトナムで破れると、
こうした《近代》の妄執は終わって、
もう一度、自然分娩と母乳による授乳に戻って行くラマーズの運動が
始まったように、
美術は、その下部構造の《非芸術》《無芸術》性を回復するのです。

その《非芸術》《無芸術》の回復性に、盲目的に可能性を見る
美術が氾濫し、そして枯れて行くと言う事態に成ったのです。



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