SSブログ

芸術の趣味判断/ダニエル・ブェスのパーカッションを例にして [音楽の頂点]


ダニエル・ブェスのパーカッションは、私には、ずいぶんと
刺激的なものでした。
【YouTube画像】では、あまり伝わらないかもしれませんが、
ライブで見ると、今までの現代音楽とはちがった音楽になっている
ことが、良く分かるのでした。

Ensemble Phoenix Basel Soloists
スイスと日本の新しい音楽

<experiment> 2009年8月1日(土)18:00-20:30 STUDIO 1619

<live> 2009年8月3日(月)19:00
 杉並公会堂・小ホール

みて、すぐにブログに書けば良かったのですが、
感動したせいか、なかなか言葉にならなかったのです。

従来の現代音楽と、明らかに違う時代になったことを感じました。
1975年くらいから、現代音楽の前衛性は、停滞したといわれて来た
のですが、
そうした停滞感は消えるどころか、
まるでロックを聴いているかの様な躍動感と、
エンターテイメント性に満ちてて、
しかも高度の知性と、技術に裏打ちされて、
120パーセントの満足があったのです。

この音楽会は、作曲家の川島素晴さん山根明季子さんが
やっているeX.(エックスドット)というシリーズのひとつでした。

アンサンブル・フェニックス・バーゼル
       / Ensemble Phoenix Basel  

998年の設立以来、バートウィスルのオペラ《パンチ&ジュディ》、カーゲルの《マーレ・ノストルム》、マルターラー監督による
《月に憑かれたピエロ》などの注目すべき公演、WERGOのミューラー=ジーメンス作品集をはじめとするCD録音に携わってきた。
33名に及ぶメンバーはそれぞれ現代音楽のスペシャリストであり、スイスを代表する現代音楽アンサンブルとして、バーゼルでの
定期演奏会の他、スイス国内各地はもとより、ヨーロッパ諸国、中東、アジアなどの現代音楽フェスティヴァルに多数出演している。

◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆

何が、今までと違うのか?
その差を言い当てる言葉を探して行くのが、
彦坂尚嘉の《言語判定法》なのです。

彦坂尚嘉の《言語判定法》自体を、
いかがわしいと言って批判する人がいます。
その気持ちは分かります。

その人たちに理解して欲しいのは、
物事には、「判定」が、現実には行われている事です。

谷崎潤一郎の『文芸読本』でも、
文章の善し悪しを、問題にしていて、
その時の例として、お酒の品評会の話が出て来ます。

つまり芸術の趣味判断の背景には、
実は味覚の趣味判断があります。

このことは美学者の谷川渥氏も書いています。

18世紀に、ヨーロッパが世界に侵略をして植民地を持つと、
世界中から食べなれない新しい食物が入って来て、
それをヨーロッパの貴族が「これは美味しい、あれはマズい」と
判断する所から、芸術の趣味判断が始まったのです。

ですから、芸術の趣味判断は、食べなれないもの、新奇なもの、
めずらしい食べ物を食べる所から始まります。

同じものしか食べない人は、趣味判断は出来ないのです。

音楽でも同じことが言えます。
めずらしい、今までに聞いた事の無い音を求める気持ちの無い人
には、芸術の趣味判断はできないのです。


良く分からない前衛美術や前衛音楽の判断のためのものなので
あって、貴族趣味なのです。

ですから、貴族的ではない人には、実は芸術の趣味判断は無理なのです。
そもそも高級料理とか、高級芸術というのは、
貴族的なものであって、下層のホームレスや浮浪者のためのもの
ではありません。

漫画を読んでいる下層の人々には、
芸術判断の必要性は、もともと無かったのです。
このことは不愉快な事ですが、事実としてあるのです。

◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆

現実には、お酒の品評会は行われていて、
それは日本酒であろうと、ワインであろうと、存在しているのです。

そしてまた『格付け』というのは、
フランスミシュラン社により出版される様ないろいろなガイドブックで、
ホテルやレストランは、格付けされているのです。

この格付けについても、批判は様々に行われていて、
人によって、格付けの判断は、必ずしも一致しないものでもあるのです。

そしてまたムーディーズの企業や国家財政の信用について、
格付けは行われています。

◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆
この日聞いたダニエル・ブェス / Daniel Buessは、
どこが、新しかったのか?


例えば、昔の現代音楽を代表するクセナキスの
パーカッションの音楽を聴いて下さい。
ここには、たとえば「純粋音楽」とか、
「理性脳による音楽」という言葉が当てはまると、
私は、考えるのです。



同じ事は、1970年のスティーブ・ライヒのドラミングにも言えます。
これは私もライブを見ていて、大好きな曲ですが、
この音楽にも、「純粋音楽」とか、「理性脳の音楽」という
言葉が対応すると、私は感じます。



ところが、ダニエル・ブェスの音楽には、
純粋音楽と、キッチュな音楽の同時表示が行われているのです。

別の言葉で言えば、理性脳の音楽と、原始脳の音楽が、
同時に存在しているという、そういう豊かさなのです。

私は、ここに情報化社会特有の表現の質を見るのです。

つまり《近代》の芸術が、キッチュを排除する所で成立した
のに対して、情報化社会の現代においては、
古いキッチュな表現を再評価しつつ、
単なる復古ではなくて、
キッチュと純粋芸術が同時表示されて、
新しい統合がなされていると、私には聴こえるのです。

もちろん、インプロビゼーションが大量に入り込んでいる事も
あると思いますが、
そのことを含めて情報化社会の表現の特徴だと思います。


付/あとで『アートの格付け』を加筆します。



nice!(3)  コメント(1)  トラックバック(0) 
共通テーマ:アート

nice! 3

コメント 1

柏原孝昭

こんにちは。柏原です。
PHONEXのCD聴かせていただきました。まず耳に入って来るのは
ノイズですね。ドラム類の布団をたたけばモクモクとたち現れる
ホコリノイズ。フルート、クラリネットもノイズを多用した奏法で尺八風。
(ライヒのドラミングにはノイズがないですね。ノイズを伴えば
ミニマルな音の構築性に靄がかかる。)

最近聴いた音楽で
面白いなと感じたコンサート2題(HNK-FM)は芥川作曲賞
選考演奏会2009ー小出雅子と、作曲家の個展2009-中川俊郎です。
小出はオーケストラに楽器でない音をふんだんに持ちこみメルヘンチックに
覚醒した音世界を創った。まあ、ライブエレクトロニクもこれにあたるが、
小出は生な素材を扱っているのかな。

中川は楽譜の中に記譜と白紙の部分があって
白紙の部分はオーケストラの即興・インプロヴィゼーション、作品タイトルが
合奏協奏曲だからカデンツアでもあり奏者全員がソロでカデンツアを演奏
している。(作曲部分と即興部分の聞き分けはつかない)
3者に共通しているのは、外部の招聘で、楽音以外(ノイズ)、楽器以外、作曲以外によって、音楽の地平を広げようとしている。

最近はアンビエント音楽、環境音楽ーブライアン イーノ風音楽が流行りの
様だけど、退屈音楽。退化音楽の様にも聞える。どうでしょ。これは全面外部だから、退屈なんだ。
by 柏原孝昭 (2009-11-18 02:45) 

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

トラックバック 0

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。