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こたつ問題・再考 [建築]

上岡誠二さんから、次の様なコメントをいただいた。


ボクは最初の計画のこたつの方がつまらなく感じます。
あくまでもそれはこたつなのです。

こたつの脚は決まって一本壊れていて、
「あぁっ、その角に肘のせたらだめっ」とか、
親戚が集まったとき、こたつやらちゃぶ台やら並べて、
その段差で鍋の汁とかこぼしたり
そんなところからコミュニケーションが深まったりするもので、
「こたつ問題」というコミュニケーションも生まれたわけですから、
その辺のみんなが認める建築物より
よほど面白いものになっています。

『「みんなのこたつ」の制作プロセス』ブログを削除したのは、
批判されたからでは無いとボクは読み取っています。

かえって言い訳のように感じたからではないでしょうか?

あるがままで良いという潔ささえ感じます。

問題点があるとすれば、「この若い」無しの、
『建築家たち』の弱さではないでしょうか?

もちろん、削除しない方が良かったということについては
同意見なのですが、、、
とにかく、彦坂さんの追求心にはいつも感服しています。

by 上岡誠二 (2009-09-25 05:18)  

 

上岡誠二様
良いコメントをありがとうございます。

 


本来は、最初のアイディアでしかない、

つまりシニフィエであるものが、現実の制約や、

いろいろな事情の中で具体化して行って、

物質性をもったシニフィアンになって行く形で、

作品は成立するのです。


おっしゃるように、こたつ作品も、4つに割ったもの、

つまり普通のこたつのイメージを超えたものになって、

それを面白いと評価する上岡さんの視点は、

正統であると思います。


k6.jpg

 

 


2人の若い建築家が、そのように積極的に考えて、

 

図面にあるように、

4つのパネルを開けて会場に展示していれば、

今回のような批判は起きなかったでしょうね。

 


また、最初の普通のこたつのイメージに戻すかの様な展示を

 

してしまったために、

あまりにも稚拙な破綻に見えてしまったのです。



◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆


この2人の弱さが問題になっていますが、

それだけではありませんでした。


建築系ラジオに対する批判も出て来たので、

ラジオ側が、シンポジウムに招待をして発言を求めたのですが、

逃げたり、書き込みを消したりした人が出てしまったのです。


今の若い人々に、本質的な弱さが生まれているように見えます。


この弱さについては、ボドリヤールが、

自己免疫性の衰弱化という予言をしていました。


つまり環境や文明の中から、醜悪さや、汚濁、悪徳の部分が

隠されたり、排除されて清潔になった現代文明の中に育つと、

自己免疫性が弱くなってしまうと言うのです。



by ヒコ (2009-09-25 08:24)  

 


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コメント 4

上岡誠二

彦坂さん、ご返答ありがとうございます。

ボクには自己免疫性の衰弱化を如実にあらわしているのはこたつ問題の建築家の方々の発言のように思えます。「建築の世界に汚らしいオブジェが紛れ込んで来た、外に放り出さないとっ!」という感情だけで、批評になっていません。また、彦坂さんはとにかく最後まで探求し続けて、どこに問題があるのかを見つけてアドバイスまでしているのに、彼らはこたつ問題の問題とかメディアがどうのこうのなどという方向に逃げてしまっています。作品を作るといったポジティブな行為であれば、素人でも誰でもどんどんやるべきだと考えますが、批評はそういうわけにはいきません。素人の批評はいじめのようなものです。逃げたり、書き込みを消したりした人は自分の不甲斐無さを認めている気がします。ボクもある人にこたつ問題には関わらない方が良いよとアドバイスしましたが、虎(彦坂さん)の威を借る狐のようにそこに居続けるより、関わらない方がいいということもあります。若い人はこれから成長していくと思います。

ボクが興味を持ったフリー・ソフトウェアの特長のひとつに、否批評性というものがあります。フリー・ソフトウェアを良いものにしていくために批評は意味をなさず、かわりにハックしていくしかないのです。気に入らなければ自分で直す。自分で作る。ソフトウェアに限らず「フリー」を生きようとする若い人たちは確実に増えています。
by 上岡誠二 (2009-09-25 10:59) 

ヒコ

上岡誠二 様

私自身は、山田さんとも、五十嵐さんとも長く付き合っていて、建築に対するシビアさは知っていると言うことがあります。建築に対して真面目なのです。
こたつを作った2人である大杉哲也さんと、伊藤友隆さんの大学院生は素人ではありません。東大の工学部の建築家の学生で、コンペで受賞している、小さなスターであったような人たちです。いわゆるカリスマ学生です。
この越後妻有トリエンナーレも、コンペでの出品です。制作費も支払われていて、観客は入場料を払っているので、批評をする事には社会的な正当性があります。

批評そのものを否定するのは、批評という事が近代に栄えた文化行為なので、脱−近代においては、倒錯して、否批評性になっているということは、あると思います。

文化の生産には、2種類があって、民謡や民家の建築のような、民衆芸術の場合には、無署名性や匿名性があって、その場合、批評というのは、ないのかもしれません。フリーソフトというのは、伝承芸術の生産構造の中で作られているのだと思います。

それに対して、署名性で作品を成立させるやり方があります。それが《ハイアート》の方法です。その場合、批評や非難を、甘んじて受けて、それを跳ね返しながら制作して行くという構造なのです。

こたつをつくった2人は、pop-up-tokyoというグループで活動をしているので、pop-up-tokyoという署名性を持っていると思います。したがって批評をされる事自体は、しかたがないと思います。

つまり、そもそも越後妻有トリエンナーレの公募に応じて、北川フラムの審査を受けて通って、予算がついて、制作した以上、いわゆる民衆芸術や伝承芸術の範囲ではなくて、署名性のある制作であるのです。その場合、批評されることは避け得ないと思います。

批評が個人攻撃や、いじめであるか否かは、社会的な公益性の問題です。建築系ラジオの批評が、今回の場合に社会的な公益性があったのか?
それが議論される必要は、あります。

by ヒコ (2009-09-26 02:44) 

上岡誠二

彦坂さん。もちろん、みんなのこたつを批評すること自体を否定しているわけではありません。
とにかく今後の議論を見守ろうと思っています。

フリー・ソフトウェアについて、なにより資本が自由を奪うことの否定から始まっていますので、署名性というブランディングを行うことは考えていませんが、そこには二重構造があって、コピーライトによる署名を付けることによって、その無名性を獲得しています(コピーレフト)。伝承芸術の方法も応用していますが、それは署名性のある作品の中にも内包されているものですし、フリー・ソフトウェアにおいて個というものが消滅しているわけではありません。自然権としての著作権の扱いを自ら決定するわけですので、より個が確立されているともいえます。そして自由であることさえ担保されればあとは資本に委ねても良いのです。ディストリビューションというかたちなどでのブランディング/差別化も行われ、市場さえ開発されています。その時点においては否批評性は放棄されます。おっしゃるとおり「批評という事が近代に栄えた文化行為」であって、それは資本主義と同時に発生したのだとと思います。

アート、彦坂さんの格付け《ハイアート》と《ローアート》に置き換えるとどうなるかというと、いまのところよくわかりませんが、《ハイアート》による《ローアート》になるのでしょうか?とにかく二重構造になっているのです。
by 上岡誠二 (2009-09-26 09:20) 

ヒコ

上岡誠二様
《ハイアート》と《ローアート》の分離そのものの起源が、どこかにあるのは確かです。普通、西洋美術史では、ルネッサンスの時の、アーティストによる署名行為にその起源を見ると思います。
ルネッサンスの前にも、ローマ/ギリシアにも署名性があったという事実はあります。失われたのは中世期です。
私は、この情報化社会は、新中世になって来ていると思うので、もしかすると、《ハイアート》《ローアート》の同時表示の成立は、ご指摘のフリーソフトなどから始まって、広がっていくのではないでしょうか。古い現代美術の中にも、底流としては匿名性への回帰の流れはありました。明確に言ったのは、柏原えつとむのMr.Xの仕事などです。斉藤義重の中にも、無名性への回帰性は強くありました。
by ヒコ (2009-09-27 20:40) 

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