SSブログ

住吉大社の美しさ/大竹伸朗(大幅加筆2画像追加校正1) [アート論]



ユミさんというかたから、
住吉大社の美しさについて、次のようなコメントをいただいていました。

むずかしい質問なので、お答えが遅くなって申し訳なかったですが、
ご返事致します。

「入校と執筆の完成」の方にも、コメントさせていただいた者です。

E3838EE382A4E382B7E383A5E382BFE38383E38388.jpg

さて、ハーマン・マイヤー・ノイシュタットの作品「マジックシアター」を、
<超1流>のパーフェクトな作品と分析なさっておられますが、
それは「<住吉大社>の文化的記憶」をも、踏まえてのことでいらっしゃるのでしょうか?

20080208_55.jpg

sumiyosi01.jpg
sumiyositukuri.jpg
0616-1.jpg
IMG_5369.JPG.jpeg
27001775_1186_1.jpg



まったく、考えていませんでした。

ただ、原理としては、ノイシュタットの作品と、
住吉大社の比較は、無理です。


比較について


住吉大社そのものは、前近代の宗教建築であって、
ノイシュタットの作品は、建築らしいものではありますが、
建築ではなくて、美術作品です。
しかもドイツ人の作家のものなのです。

比較して考える場合には、
基本は、類似品を比較するという、原則があります。

つまり離れているものは、比較してはいけないという、
規範があります。
この規範は、学問的なものです。

E3838EE382A4E382B7E383A5E382BFE38383E38388.jpg
2007050619292239_2.jpg
DSCF0148.JPG.jpeg

しかしこの規範は、完全には固定はされていないので、
何かを介在させれば可能になる場合もあります。

私の『アートの格付け』で、
一度格をつけてから、その同一性をあげるということは、
その方法で、成立していると、彦坂尚嘉は考えていると言うものです。

例えば、小林幸子の歌が《第21次元》であって、同時にコールハースの建築を《第21次元》と言う場合がそうです。

原理的には、小林幸子の演歌と、コールハースの建築は比較できません。

しかし両者が、
《第2次元》という技術領域の倒錯領域である《第21次元》である
という《言語判定法》による芸術分析の結果を介して、
比較できないものが、
実は《第21次元》という同一次元に存在しているという指摘を、
彦坂尚嘉の責任の範囲ですが、出来ると言っているのです。

この場合は、《第21次元》というディメンションが存在しているという
分析性なのです。
こういう操作には、ですからいくつかの手続きと、
限定があるのであって、
単純素朴な類推では、出来得ないのです。

つまり比較するには、ある程度の手続きが必要なのです。

ノイシュタットの作品と、住吉大社を比較する事は、
比較という方法の原則に照らした場合、
基本としては、無理な事です。


私は、「三つの筒が縦並び」という「マジックシアター」の形体画像を見た瞬間に、<住吉大社様式>との類似が浮かんだもので、たしかに「きれい」ではありますが、彦坂さんの分類におかれましては、これは<宗教次元>に属するものではないのか、と、やや疑問に思われました。

ユミさんの連想は、個人的には起きえる現象です。
人間は、知らなかったものを見ると、
自分の知っているものに関連づけて見るという、行動をとる者なのです。

私のアメリカの友人の父親が日本に来て、
日本見物をした時に付き合ったのですが、
日本の何を見ても、自分の知っているアメリカのものに関連づけて、
「何々みたいだ」ということを連発していました。

このような連想の現象には、意味はあるので、
ユミさんが、ノイシュタットを見て、住吉大社を連想された事は、
分かります。

しかし
そのことが、ユミさん個人を超えて、文化的な次元として
一般性をもって語り得るかという次元は、別の水準なのです。

ノイシュタットのものは、普通の意味で、宗教建築ではないし、
伝統的な、つまり前近代建築ではないのです。
ですから、住吉大社と比較して語る事はできません。


全人類の美術史

そして限界について



>人間が作れる限界の高さに近づいた名品だと思います

「いつの<人間>か」とか、または「どういうタイプの<人間>か」を、前提においての、『限界の高さ』なのか等も、加えてご説明いただければ幸いです。

このご質問は、ごもっともです。

私の前提にしているのは、全人類史ですので、
ご質問の「いつの<人間>か」とか、
または「どういうタイプの<人間>か」という限界は、
ありません。

もちろん、全人類の歴史という概念が、成立しえるのか?
という疑問はもたれるとは思いますが、
少なくとも美術に関しては、
全人類の歴史の中で見て行く事が、ほぼ普通にできるのです。
少なくとも大きな美術全集は、そのレベルで編纂されています。

言い換えると、美術全集の知識を前提に考えているレベルが基盤で
全人類の歴史というものを考えています。


『限界の高さ』というのも、重要な視点です。
例えば、レオナルド・ダ・ヴィンチのモナリザという作品は、
そうした限界に達している作品です。

そうした作品の場合に、
このモナリザを下敷きに制作すると、
かならず、作品が、モナリザよりも低くなるという現象に結果します。

別の例を挙げると、
ジャニス・ジョップリンという歌手の登場を、
同時代的に、私は見て来たのですが、
ジャニスの歌は、『限界の高さ』に達しているもので、
ジャニスの死後、彼女を超える、ああいうタイプの歌唱は、
出て来ていません。

schwitters00.jpg
シュビッターズ
《想像界》の眼で《第1〜6次元》の《真性の芸術》
《象徴界》の眼で《第1〜6次元》の《真性の芸術》
《現実界》の眼で《第1〜6次元》の《真性の芸術》

《想像界》《象徴界》《現実界》の3界をもつ重層的な表現
気体/液体/固体/絶対零度の4様態をもつ多層的な表現

《シリアス・アート》《ハイアート》

シニフィアン(記号表現)の美術
《透視画面》『オプティカル・イリュージョン』【A級美術】

それに対して、

クルト・シュビッターズのメルツェの絵画は《第1次元 社会的理性領域》作品で、

これの影響を受けてラウシェンバーグが、
コンバイング・ペインティングを展開して
《超次元》の作品を制作しています。

RauschenbergRVH4Estate.jpg

ラウシェンバーグ
《想像界》の眼で超次元〜6次元》の《真性の芸術》
《象徴界》の眼で《超次元〜6次元》 の《真性の芸術》
《現実界》の眼で《超次元〜6次元》 の《真性の芸術》

《想像界》《象徴界》《現実界》の3界をもつ重層的な表現
気体/液体/固体/絶対零度の4様態をもつ多層的な表現

《シリアス・アート》《ハイアート》

シニフィアン(記号表現)の美術
《透視画面》『オプティカル・イリュージョン』【A級美術】

つまりシュビッターズの作品は、美しいものではありますが、
《第1次元 社会的理性領域》であったがゆえに、
『限界の高さ』には達していなかったのです。
だからラウシェンバーグが、下敷きに使う事ができたのです。
そして《超次元》の『限界の高さ』を、
ラウシェンバーグが、達したのです。

Rauschenbergシュビ一ターズ.jpg

シュビッターズ                  ラウシェンバーグ
《想像界》の眼で《第1〜6次元》の《真性の芸術》《想像界》の眼で超次元〜6次元》 の《真性の芸術》
《象徴界》の眼で《第1〜6次元》 の《真性の芸術》《象徴界》の眼で《超次元〜6次元》 の《真性の芸術》
《現実界》の眼で《第1〜6次元》 の《真性の芸術》《現実界》の眼で《超次元〜6次元》 の《真性の芸術》

《想像界》《象徴界》《現実界》の3界をもつ   《想像界》《象徴界》《現実界》の3界をもつ
気体/液体/固体/絶対零度の4様態をもつ     気体/液体/固体/絶対零度の4様態をもつ

《シリアス・アート》《ハイアート》       《シリアス・アート》《ハイアート》

シニフィアン(記号表現)の美術          シニフィアン(記号表現)の美術
『オプティカル・イリュージョン』【A級美術】   『オプティカル・イリュージョン』【A級美術】

【続きは下記をクリックして下さい】
これに対して、シュビッターズや、
ラウシェンバーグを下敷きにした大竹伸朗の作品は、
《第6次元 自然領域》に転落しています。

ラウシェンバーグは、《超1流》で、作品としては、
人間が制作しうる限界の高さに至っているので、
この手のゴミを付ける様な作品は、
もう制作するのは、事実上無理なのです。

それを大竹さんは、無謀にも影響を受けたから、
レベルが落ちるのです。


つまり《超1流》のすぐれている作品というのは、
それを鑑賞するだけで、直接の模倣はしない方が良いのです。

press200.jpg

大竹伸朗
《想像界》の眼で《6次元》のデザイン的エンターテイメント
《象徴界》の眼で《6次元》 のデザイン的エンターテイメント
《現実界》の眼で《6次元》 のデザイン的エンターテイメント

《想像界》の表現だけで、《象徴界》《現実界》は無い。
液体美術だけで、気体/固体/絶対零度の3様態は無い。

《気晴らしアート》《ローアート》

シニフィアン(記号表現)の美術
《原始平面》『ペンキ絵』【B級美術】

ゴミを使って作ると言うのは、
シュビッターズのメルツェの絵画が独創ですが、
もはや、この手の制作手法は、
ラウシェンバーグで頂点になっていて、限界に達していたのです。
それを遅れて来て同じ手法を増幅するから、
大竹伸朗の場合には、亜流者、さらには模倣者と言われるのです。
つまり独創的なアーティストとしての名誉は、送られないのです。

schwitters大竹.jpg

大竹伸朗                                                                          シュビッターズ
《想像界》の眼で《6次元》 のデザイン                          《想像界》の眼で《第1〜6次元》 の《真性の芸術》
《象徴界》の眼で《6次元》 のデザイン                          《象徴界》の眼で《第1〜6次元》 の《真性の芸術》
《現実界》の眼で《6次元》 のデザイン                          《現実界》の眼で《第1〜6次元》 の《真性の芸術》

《想像界》の表現だけで、《象徴界》《現実界》は無い。 《想像界》《象徴界》《現実界》の3界をもつ
液体美術だけで、気体/固体/絶対零度の3様態は無い。    気体/液体/固体/絶対零度の4様態をもつ

《気晴らしアート》《ローアート》                                  《シリアス・アート》《ハイアート》

シニフィアン(記号表現)の美術                                        シニフィアン(記号表現)の美術
《原始平面》『ペンキ絵』【B級美術】                    《透視画面》『オプティカル・イリュージョン』【A級美術】


シュビッターズと比較すると、
大竹伸朗の作品は、汚いです。
シュビッターズの透明感こそが、《真性の芸術》の美しさです。




Rauschenberg大竹psd.jpg

大竹伸朗                                                                          ラウシェンバーグ
《想像界》の眼で《6次元》 のデザイン                          《想像界》の眼で《超次元〜6次元》 の《真性の芸術》
《象徴界》の眼で《6次元》 のデザイン                          《象徴界》の眼で超次元〜6次元》 の《真性の芸術》
《現実界》の眼で《6次元》 のデザイン                          《現実界》の眼で超次元〜6次元》《真性の芸術》

《想像界》の表現だけで、《象徴界》《現実界》は無い。 《想像界》《象徴界》《現実界》の3界をもつ
液体美術だけで、気体/固体/絶対零度の3様態は無い。    気体/液体/固体/絶対零度の4様態をもつ

《気晴らしアート》《ローアート》                                  《シリアス・アート》《ハイアート》

シニフィアン(記号表現)の美術                                        シニフィアン(記号表現)の美術
《原始平面》『ペンキ絵』【B級美術】                    《透視画面》『オプティカル・イリュージョン』【A級美術】


大竹伸朗とラウシェンバーグを比較すると、
なおさら、大竹の汚さと、原始平面性、そして『ペンキ絵』性が
目立ちます。

一人の作品をお手本や下敷きにしても、
その作品よりも『アートの格付け』を上げた作品を作れば
模倣とは言われません。

それに対して、下敷きにした作品よりも『アートの格付け』を
下げたものを作ると「マネをした」と言われて非難をされるのです。

Rauschenbergスビッターズ大竹.jpg
大竹伸朗        シュビッターズ     ラウシェンバーグ
デザイン       《真性の芸術》    《真性の芸術》
《第6次元 自然領域》《第1次元 理性領域》《超次元 超越領域》
亜流・模倣者          独創者                       発展者


こうした比較をしないと、
大竹伸朗の表現が、低くて、くすんでいて、しかもデザインであることは
分かりません。
つまり大竹伸朗だけを見ていれば、すぐれた表現のように見えます。



同じ事はサザンオールスターズの歌にも言えて、
サザンが下敷きにしている洋楽を聞いていないで、
サザンだけを聞いていれば、すばらしいものに、聴こえます。

私が、全人類の美術史という立場を取るのは、
こうした比較で、美術作品の芸術分析を考えるからです。

日本のローカリティだけに閉じこもって、
大竹伸朗を高く評価している評論家に福田和也がいます。
彼の方法は、広く、公正には物事を見ないのです。
日本人が好んでいる好きな見方だけで、見たいものだけを見るのです。

狭い視野であれば、大竹伸朗を評価できますが、
広い視野に立つと、大竹伸朗は評価できないのです。

これは立場や方法の違いであって、
福田和也と、彦坂尚嘉は、意見が合わないのですが、
そうやって、違う意見が並立するのです。

私は、このように並立するので良いと思います。




sumiyosi01.jpg


ユミさんの、取り上げた住吉大社の建築は、
たいへんにきれいなものですが、《第1次元 社会的理性領域》の
建築です。

《第1次元 社会的理性領域》のものは、
人間が深く愛するという、そういう愛を生み出す力が、
非常に強い領域です。

ですので、ユミさんは、深く愛しておられるのであろうと、
思います。

それに対して《超次元》のものは、
そういう愛とは次元が違うのです。
分かりやすいのは阿修羅像ですが、
あれは多くの人が好きなものですが、
阿修羅像に惹き付けられると言う事が、
愛するという《第1次元 社会的理性領域》のものと、
違うのです。

《第1次元 社会的理性領域》の住吉大社の建築を愛する場合には、
本当に恋人を愛する様な同次元性で愛しているのだと思います。

しかし阿修羅像のような《超次元》のものは、
仰ぎ見る様な、畏怖性をもった敬愛であるのです。

もちろんユミさんは、住吉大社を敬愛なさっているとは思いますが、
私の方から見ると、そのような差として、
《第1次元 社会的理性領域》のものと、
《超次元》のものの差というのが、文節化されるのです。


住吉大社 建築様式 
http://www.sumiyoshitaisha.net/outline/architect.html


住吉大神さまはどのような神さまですか? 

住吉大神さまは底筒男命・中筒男命・表筒男命といわれる三柱の神さまの総称をいいます。
この住吉大神さまは、お祓い・航海安全・和歌の道・産業育成などのご守護をされることで有名です。
古くより多くの人々の崇敬を受けてきました。

『古事記』『日本書紀』など日本最古の伝説と歴史が書かれている書物によりますと、イザナギノミコトが亡き愛妻イザナミノミコトを追いかけて、
ついに黄泉国(死者の国)にまで行かれました。

しかし、妻を連れ戻すことは出来ず、地上へと帰ることになりました。
地上に戻ったものの、その身には黄泉国のケガレを受けてしまったので、海に入って禊 (みそぎ) を行ないました。
禊とは身体を清める行為で、これを行なった時に、底筒男命・中筒男命・表筒男命の三柱、つまり住吉大神がお生まれになりました。
よって「海の神」「おはらいの神」として特に崇敬されます。
海は生命の源であり、禊や祓という行為も水でもって生命力を更新するものですから、住吉大神は「生命」そのものを守護育成される尊い神さまです。 

よくある質問
http://www.sumiyoshitaisha.net/dictionary/faq_sumi.html#no03



by ユミ (2009-08-20 18:39)  

nice!(3)  コメント(3)  トラックバック(1) 
共通テーマ:アート

nice! 3

コメント 3

naomi

いつも拝見させていただいております。

私的なお願いですが、
「絢香」さんの美人論、言語判断をして頂きたくコメントいたしました。
藪から棒に、というか、唐突に申し訳ないのですが、
どうも 印象が薄いというか芸能人にしては 記憶が残らない顔を
しているような気がして、不思議なのです。

お時間があればお願いいたします

彦坂様のご健勝いつもお祈りしています!

by naomi (2009-09-25 01:56) 

ヒコ

naomi 様
コメントとリクエスト、ありがとうございます。「絢香」さん、近いうちに書かせてもらいます。
by ヒコ (2009-09-25 08:16) 

syoj

大竹シンロウはもっと先にイッテるよ。
by syoj (2011-11-21 23:50) 

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

トラックバック 1

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。