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私的結論(加筆2) [アート論]


今日の芸術表現を考えると、何よりも倒錯領域をもった
表現であると言えるように思います。

つまり、かつてのように、
《超次元》から《第6次元 自然領域》までのものではなくて、
《第7次元 ビジネス領域》から、
《第41次元 崇高領域》までの、
すくなくともどれかの次元性を持った表現です。

たとえば村上隆は《13次元 喜劇漫画領域》で出現したから、
面白かったのであるのですが、
最近の村上隆のように《第6次元 自然領域》の作品になることは、
凡庸化であって、
今日的な性格を失っているのです。

中川晋介さんのアニメーションは、
《超次元》から《第6次元 》までの《真性の芸術》を成立させていて、
大変にきれいな作品と,高く評価します。

しかし、彼の作品よりも、
《第21次元 愛欲領域》しかないピピロッティルストの作品の
方が、倒錯領域があるゆえに、今日的であると思うのです。


倒錯性をもっているものを、
情報化社会の芸術の特徴であると定義したいのです。

つまり中川晋介さんのものは、3次元アニメーションで、
今日的であるはずなのに、
実はバッハの音楽の様な古典的な芸術観に還元されている
のです。
新しい技術を使って、古い芸術を作っているのです。
それは良くできていて、高く評価できるのですが、
しかし、コンテンポラリーアートとしては、
性格づけが弱いのです。

現実としては、倒錯性を持たない、
中川さんの作品の様なものは、たくさん作られています。
特に《第6次元 自然領域》がたくさん、あるので、
正しい定義というよりは、
私自身の私的な仮説であると言う程度のものですが、
今日の表現は、倒錯領域で成立していると考えるのです。

人格的にも、《象徴界》を
《超次元》から《第41次元》までの全領域に拡大したものであると、
彦坂尚嘉は、このいろいろなものを芸術分析してきた結果から、
結論づけます。

《超次元》〜《第6次元 自然領域》までであるのは、
それこそバッハやベートベンと同じであって、
古いとしか言いようがないと、考えるのです。

もっとも、これも、現実というよりは、
彦坂尚嘉の私的な仮説的な結論です。

この事は小沢一郎が民主党党首を辞任した時にも、
このブログで問題にしたのですが、
今日的な文化構造の変化を、人格の問題として見ると、
この倒錯領域を内包できるかどうかがかかってくるのです。
それは《パンドラの箱》が開いた、
1975年以降、
さらには1991年以降の時代の問題であるのです。

小沢一郎の、今回の選挙での民主党の勝利に結びつくような
努力の問題は評価できます。
人間の活動のひとつの側面は確かに努力の問題なのです。
努力を積み重ねる事が、全ての問題を解決するとも、
言えるかの様な事態はあります。

大竹伸朗を評価する人も、それはあの膨大な作品の制作量という、
努力を背景にあるのです。
しかしあれが全てゴミに準ずる様なものの場合,どれほどの量が
あろうとも、低いものは低いのです。

その低さを、低さと見る事が認識です。
つまり人間は、物理的な努力だけでは突破できない問題が
あるのです。

認識の透徹性も必要なのです。

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今日の新しさを獲得する中心部分は、
《象徴界》の全領域化であると、
私は、個人的に私的に結論づけるのです。
そういう認識を結論としてもったのです。

彦坂尚嘉という個人のアーティストの探究としては、
この結論が最後というか、限界であります。
これ以上の探究は、不可能であると判断します。

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不可能性をまえにして、

後は、残された時間、実践と努力と、勤勉さの追求だけであると
考えます。

できるだけ、《超次元》から《第41次元》までの全領域の人格を
持っている方々と知り合って、連携をして行きたいとは思いますが、
それ以外では、出来るだけ普通の社会人として、
節度と常識を持って接することに、集中をしたいと思います。

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人格の中心は《象徴界》のこの全領域性であると、
彦坂尚嘉は結論づけるのです。

つまり《象徴界》の違いがある場合、
基本的には話=認識は、本質としては通じません。

このことを別の言い方をすると、
人にはそれぞれ先入観があって、
それを信じているので、
それを否定する様な認識を理解はできません。

可能なのはシニフィエ(記号内容)的コミュニケーションだけであって、
それ以上のコミュニケーションの深さ、
つまりラカンが強調したシニフィアン(記号表現)連鎖による交流は、
不可能なのです。

重要なのは、このコミュニケーションの不可能性の次元差の存在です。

つまり養老孟司が、「人間同士が理解しあうというのは根本的には不可能である。理解できない相手を、人は互いにバカだと思う」という主張を『バカの壁』という本で主張しましたが、この《バカの壁》を生み出しているのは、彦坂尚嘉の論理では、人間の《象徴界》の次元の差異なのです。次元が違えば、基本的に理解し合う事はありません。あるのは誤解しあった人間関係です。

つまり彦坂尚嘉の理論枠では、
《超次元》から《第41次元》までの42段階があるので、
それは認識の次元の多様性と言えるのです。

全ての人が、平等には認識が出来ないのです。

認識の共有化が出来ると信じたのが、
《近代》の啓蒙主義であったのですが、
今日では、共有化が不可能であるという結論が出て、
フーコーが言うように、規律社会から、管理社会に移行したのです。

彦坂理論では、意識は拡大可能で、
しかもそれは空想の中で、可能であるとするものですが、
しかし臨床例が、自分だけなので、本当かどうかは分かりません。
ですから拡大すれば、コミュニケーション領域は広がるのです。
しかし、こうした意識の拡大の方法を広めようとすれば、
それは人格改造講座のようになってしまうのであって、
他人のプライバシーに介入する事は、
避けて行きたいと思います。


認識は共有できることが、共通の次元性に限られていると認めると、
実は、認識の共有は、実は、社会の問題ではないのかもしれません。

社会的な分裂は、避け得ないのです。

彦坂の認識からは、社会的には、
認識の分裂状態が恒常的であるのであって、
それを超えるもの、つまり認識の差を超えるサントームだけが共有の
可能性を示すことになります。

このように、考える事は、
認識による探究では、他者との連携は出来ないという事です。

認識ではない所で、他人とはつながっている。

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残るのは、社会を成立させている《第1次元 社会的理性領域》を
重視して、ここに基盤を置くという事なのか、
それとも《第1次元 社会的理性領域》を排除して、
アンダーグランドとか、カウンターカルチャーに基盤を置くのか?
という選択になります。

私の志向としては、この両者を同時に成立させる方向に
向かうという事です。

それが今日のフーコーが言う所の管理社会であると考えます。
そしてこの両者をつなぐ方法が、ラカン晩年の志向である、
サントームであると考えるのです。

《第1次元 社会的理性領域》主義と、
これを否定するカウンターカルチャー主義を
関係づけるという、関係性に、今日の統合の次元を見るのです。

◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆

以上の結論が出ても、
この彦坂の芸術分析を、丁寧に展開して行く作業は継続されます。
しかし繰り返せば、
この彦坂の認識そのものは、決して多くの人には、
共有され得ないという事です。

たとえばコンビニ弁当でも、
《第1次元 社会的理性領域》のセブンイレブンよりも、
《第6次元 自然領域》のミニストップの方が美味しいと感じる人も、
いるのです。

同様に、大竹伸朗の《第6次元 自然領域》の作品を、
シュビッターズの《第1次元 社会的理性領域》の作品や、
ラウシェンバーグの《超次元》の作品よりもすぐれていると
信じる人もいるのです。

そうした現実の多様性は、
私自身は、
信仰の自由の問題として、
認めるという事です。

人それぞれであり、
この多様性を、認識の共有制としては成立は出来ないのです。

人間の先入観による分裂化は、
認めるしかないのです。


人は様々であり、
認識は共有できないのです。
バラバラであるということを認めるしかないのです。

人々は、バラバラに、
気体分子運動をしているのです。

このバラバラの中で、
バラバラの人をつなげるものは、
正確で精緻な認識ではなくて、
サントームであるということです。

芸術の問題も、実は、
サントームに移行していると言えるのです。
おそらくそう認識した時に、
正確な意味での芸術の死が立ち現れて来ます。

サントームを成立させられれば、
芸術ではなくてデザイン作品でも良いと言う立場です。
いや、むしろデザインの方が,
サントームを成立させやすいのだから、
情報化社会の芸術は、実はデザインなのである、
ということです。

言い換えると、芸術を倒錯させればデザインになるのだから、
情報化社会というのはデザインの時代になっているのだ、
という認識です。

《大文字の芸術》が倒錯して、デザインが時代をおおったのです。

おそらく、こうした認識は1975年以降、
強烈に展開されて来ていることは、
事実だろうと思います。

デザインの時代ではあるのですが、
それを認めてもなお、
芸術の名において成立させる以上、
芸術は、消滅させ得ないのです。

だとすれば、
デザインではなくて《真性の芸術》が、
倒錯して立ち現れることが要請されるのです。

事実そうした作品が、
出現して来ているのです。


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らん

芸術家が倒錯領域を持つのはかまわないのですが、
例えば政治家の場合、マスコミは一切触れませんが、
KJ氏などの場合は趣味がSMで、愛人の芸者の首を絞めて殺しただの、学生時代に女子学生をレイプしてロンドンに逃げただの、統合失調症で一時期精神病院に入院していただの、まさに倒錯人間そのものの噂があるわけです。しかも痛みを押し付け弱者を真っ先に切り捨てた張本人です。

それならばどんなに古くても倒錯領域を持たない政治家の方がまだ安心して任せられませんか?新しい倒錯領域を持つ政治家というのも怖いのですが。
by らん (2009-09-23 10:52) 

中川晋介

彦坂さま

ブログに取り上げていただいてありがとうございました。今回のブログの補足になればと思い「tin bird」の全篇を貼らせていただきます。

http://www.youtube.com/watch?v=ao_wxqGdl98

東京に戻ったらまたアトリエにも行かせてください。よろしくお願いします。
by 中川晋介 (2009-09-23 11:12) 

ヒコ

らん様
おっしゃる通りに、それは怖い事です。正直に言えば、私は倒錯領域は好きではありません。好き嫌いで言えば、そうなりますが、好き嫌いとは別の話です。

中川様、
良い作品を、どのようにしてアピ-ルして行くかは、時代によって違うのです。頑張りましょう。
by ヒコ (2009-09-23 23:37) 

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