ワルキューレ [映画]
トムクルーズ主演ののワルキューレという映画を、レンタルビデオで借りて見ました。トムクルーズは、サイエントロジーという新興宗教の信者で、これがドイツとぶつかっているというので、ドイツでは問題になった映画です。
一応ジャッケとを格付けして《超1流》であったので借りたのです。
すでにこのブログでも書きましたが,最近、ヒットラーの経済政策の本を読んでいたので、ナチスに対して、また興味があったこともあります。
ヒットラーは、経済政策的には自給自足経済に回帰しようとし、そして権力的には、古い王権のような父権的な独裁体制に回帰しようとしたのです。
この独裁体制については、当然,この映画もそれを描いています。
『ワルキューレ』は、2008年のアメリカ映画です。1944年に起きたドイツ国防軍将校によるヒトラー暗殺計画ワルキューレ作戦と、その指揮を執った実在の将校シュタウフェンベルク大佐を描いています。
映画監督は、ブライアン・シンガー、彼はユダヤ人で、ホモのひとです。このことは本人がカムアウトして認めている事です。
シンガー監督のこだわりにより、撮影の多くは実際に事件の起こった現場・史跡においてロケを行い、登場する建物や車輌も極力当時の本物が使われているというのですが、それがかえってキッチュで説明的な表現になってしまっています。退屈で面白さが感じられないのです。
この監督の顔写真を探して分析すると《第8次元 宗教領域》の人で、つまらないのも納得がいきます
実際の反乱を起こした将校シュタウフェンベルク大佐というのは、なかなかの人物であるのは、顔を見ても分かります。
《想像界》の眼で《超次元》から《第6次元》の《真性の人格》
《象徴界》の眼で《超次元》から《第6次元》の《真性の人格》
《現実界》の眼で《超次元》から《第6次元》の《真性の人格》
《想像界》《象徴界》《現実界》の3界をもつ重層的な人格
気体/液体/固体/絶対零度の4様態をもつ多層的な人格
《シリアス人間》《ハイアート的人間》
シニフィアン(記号表現)的人間。
『真実の人』
反乱そのものは失敗して処刑されるのですから、反乱の失敗は最初から分かっていたのです。
その最後の処刑シーンから描いて、遡行する映画にして欲しかったと思います。
そして将校シュタウフェンベルク大佐が、ヒットラーに疑問を抱いた、1938年11月の「水晶の夜」の惨事を描いて欲しかったと思いました。
将校シュタウフェンベルク大佐は、この反ユダヤ人暴動を見て、シュタウフェンベルクの道徳心と正義感に反するナチスの行為に、反感を抱くこととなったからです。
「大きな恥辱がドイツにもたらされた」と感じたのですから、ここを丁寧に描く必要があったのですが、映画にはそれが無かったのです。
映画の芸術分析は下記の様なものです。
《想像界》の眼で《超次元》〜《第41次元》の《真性の芸術》
《象徴界》の眼で《超次元》〜《第41次元》の《真性の芸術》
《現実界》の眼で《超次元》〜《第41次元》の《真性の芸術》
《想像界》《象徴界》《現実界》の3界をもつ重層的な表現
気体/液体/固体/絶対零度の4様態をもつ多層的な表現
ここまでは高い評価なのだが、残念ながら、《ローアート》であって、
そしてシニフィエとシニフィアンの同時表示。
芸術と反芸術の同時表示。
《シリアス・アート》と《気晴らしアート》の同時表示。
《ハイアート》性が無い。
《象徴界》の眼で《超次元》から《第6次元》の《真性の人格》 《超次元》から《第41次元》の《真性の人格》
《現実界》の眼で《超次元》から《第6次元》の《真性の人格》 《超次元》から《第41次元》の《真性の人格》
《想像界》《象徴界》《現実界》の3界をもつ重層的な人格 《想像界》《象徴界》《現実界》の3界をもつ重層的な人格
気体/液体/固体/絶対零度の4様態をもつ多層的な人格 気体/液体/固体/絶対零度の4様態をもつ多層的な人格
《シリアス人間》 《シリアス人間》と《気晴らし人間》の同時表示
シニフィアン(記号表現)的人間。 シニフィアンとシニフィエの同時表示の人格。
『真実の人』 『真実の人』
「ワルキューレ」,映画館で観たのですが,
映画としての出来はともかく,
その史実の切実さに最後まで引き込まれました.
一応”暗殺計画”が有ったことは知っていたつもりだったのですが,
ベックを中心とした抵抗組織が
軍人の中にここまで浸透していたとは!
鉄の結束で崩壊に向かって突進したわけではないんですよね.
プロイセン軍人の伝統とヒトラー主義との衝突は必然だったのでしょうか.
ドイツ型ファシズムの問題は依然として今日の問題でも有るでしょう.
トーマス・マンは悪いドイツと好いドイツという二分を否定し,
ドイツ固有の文化的流れとナチズムとの関連を分析しました.
その中にはドイツ・ロマン主義の考察も入っています.
「ワグナーのヒトラー」(ヨアヒム・ケーラー著,橘正樹訳,三交社,1999)
を最近読んだのですが,ヒトラー権力掌握のバイロイト祝典が
ベートーヴェン第九と共に開催された意味など,
何度も考えさせられました.
政治や,戦争,暴力と音楽との関連など,
受難としての音楽ではなく,
ある種の音楽の持つ強烈なアジテーションのことです.
またもや脱線してしまいました.
失礼致します.
by symplexus (2009-09-03 21:36)
symplexus様
ご意見面白かったです。私には「ベックを中心とした抵抗組織が
軍人の中にここまで浸透していたとは!」と書かれている様な、史実に対する忠実さえの驚きがありませんでした。ご意見を読んだ後も、実はその辺についての感慨がありません。権力論的には、シュタウフェンベルク大佐が、実は中心ではなくて、ヒットラーのNo.2にいる人たちの中に、ヒットラーを倒して自分が権力を握ろうとする人がいて、この人のドラマとしてこのクーデター劇があるのでしょう。
音楽に対するご意見は共感します。現在の現代音楽もそうですが、高度な音楽は極めて権力者や、支配者の精神状態の音楽ではないでしょうか。
by ヒコ (2009-09-04 15:07)
「ワルキューレ作戦」についての僕の予備知識のソースは
ワルター・ホーファー著の「ナチス・ドキュメント」で
1960年止まりです.それから何年も経過しているので
新しい事実が見つかっているのかもしれません.
同書によればエリート層の中で早くから形成された抵抗運動は,
最初専門的観点からナチズムの犯罪的戦争計画や冒険主義を批判
していたのですが,しだいにヒトラー運動の反倫理と闘う「良心の蜂起」
へと結集して行ったといいます.抵抗運動は軍民両面でひそかに
広まって行き,民間派の中心がゲルデラーで軍事工作担当の
中心が今回の映画にも登場したベック将軍,その第1回の決定的蜂起
計画は1938年夏としてありました.その運動を窮地に追い込んだのが
イギリス政府のチェンバレンの融和政策だということは否定できない
ように思えます.ドイツ国内の抵抗運動を知りながらの融和選択には
何が有ったのか,後の「ワルキューレ作戦」実行段階での
シュタウフェンベルクの直面した困難の遠因や,それを乗り越えて
広がった頑迷な抵抗運動のことを考えてしまいました.
by symplexus (2009-09-06 21:21)