2000年代日本現代アート論 越後妻有トリエンナーレを巡って(2)
従来の銀座の貸し画廊を歩き回る画廊巡りや、美術館や博物館を一人でコツコツと歩いて、ベンチの隅でお弁当を密やかに食べるといった貧乏臭い美術愛好家を、あざ笑い、時代遅れにする、圧倒的なアート現象の社会的スペクタクル化がはかられたのです。
しかし、このことは、アートシーンで独自に起きたものではなくて、後期資本主義社会が生み出すスペクタクル化という疎外現象のアート版に過ぎないのです。
ギ・ドゥボールが『スペクタクルの社会』(1967年)で指摘した事は、多くの人々が受動的な観客の位置に押し込められた世界に、後期資本主義社会がなったということです。映画の観客のようにただ世界を眺めることしか残されていないという状態におかれたことをスペクタクル化と言い、これが資本主義の究極の統治形態だと言うのです。
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しかし、高度消費社会の中で、資本主義そのものに対する根源的な否定意識も広がって来ています。なぜ私たちは、すべての事に対して消費者として受身でなければいけないのか? なるべくお金を使わないようにする事。ニューヨークでは、ホームレスでもない人々が、ゴミとして捨てられる食品をゴミ箱から拾って食べるまでされていると、ネットで読みました。自動車も持つ事を拒否する若者の増加。こうした高度消費社会に対する反撃の動きが次第に社会の底流に広がって行きます。
アートという自由と信じられていたものが、勝手にデザイン化に転化され、一部の新興成金により誤読され、誤読に誤読が重ねられ、幻影の時代の中で、根拠なき熱狂の嵐が吹き荒れ、美術市場は異様に高騰し、現代アートの裸の王様化が進んでいったのが2000年代でした。村上隆の作品もしかり、現代美術としてもてはやされる作品は精巧なデザインや下品さまでも上手に取り込み、さも高尚であるかのように私たちを取り巻いて、幻影と、誤読の罠をしかけてきているように感じます。
こうした村上隆的なキャラクター・アートという新・偶像崇拝美術に対する反撃であるかのように振る舞う形で、越後妻有トリエンナーレの北川フラムの里山に対する思いの思想は展開して行ったのですが、同時に農舞台やキョロロ、そしてキナーレという幻影の巨大建築が建設されていきました。
MVRDV (エムブイアールディーブイ) はオランダのロッテルダムを拠点とする建築家集団で、1991年に設立されものです。名前の由来は事務所設立時のメンバーの三人の頭文字からとったものであるのです。
- ヴィニー・マース(Winy Maas、1959年 - )
- ヤコブ・ファン・ライス(Jacob van Rijs、1964年 - )
- ナタリー・デ・フリイス(Nathalie de Vries、1965年 - )
ヴィニー・マースとヤコブ・ファン・ライスはレム・コールハースの主宰する建築設計事務所OMA(Office for Metropolitan Architecture)の出身です。
レム・コールハースは、1944年生まれのオランダの建築家。代表的な作品は、シアトル中央図書館(2004年)、カーサ・ダ・ムジカ (ポルトガル、ポルト、2004)などですが、私はこの両方を見に行っています。現在、中国中央電視台本部ビル (中国、北京、2004着工)が建設中です。
里山と自然と文化の魅力と不思議を楽しく展示する科学館という
コンセプトで建てられました。
村上隆の顔の《言語判定法》による分析 北川フラムの顔の《言語判定法》による分析
《第13次/喜劇領域》の《社会性の高いデザイン的人格》 《第6次元/自然領域》の《社会性の高いデザイン的人格》
《想像界》の人格 《想像界》の人格
彦坂尚嘉の《言語判定法》での分析で見るかぎり、二人とも社会性の高いデザイン的エンターテイメント的な人格なのです。そして《シリアス人間》で、しかも「真実の人」であるという共通性があります。アートのスペクタクル化が、実はアートのデザイン化であり、幻影化であり、それがアートの社会性の増大であったことと、この2人のカリスマの人格構造は一致していたのです。
2000年代というのは、こうして村上隆の時代であるとともに北川フラムの越後妻有トリエンナーレの時代であったのです。この二人の背後には1995年からのアメリカ社会の過剰消費の世界中への波及による『根拠なき熱狂』があり、そしてグローバリゼーションの中の自虐的で不快なセルフ・オリエンタリズムがあり、さらに日本の《大地》のアメリカゼーションがあったのです。
私自身は美術家として、この越後妻有トリエンナーレ第一回から全ての回に参加して、Floor Eventシリーズを4回展開してきただけに、感慨深くこの北川フラムによる10年間の魔術的な夢を振り返らざるをえません。
Floor Event/フロアイベントというのは、自らが立つ床そのものを直視すると言うコンセプトの作品だからです。日本の《大地》がアメリカ化したという事実を直視しなければならなかったのです。
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