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パフォーマンスとしての斉藤ちさと作品の展示(展示論を少し加筆1) [気体分子ギャラリー]

斉藤ちさとの写真作品を、彦坂尚嘉が手でもって展示パフォーマンスをして、
それをまた、斉藤ちさとが撮影して写真にしたというコラボレーション作品です。
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気体分子ギャラリーは、ネットギャラリーなので、ギャラリーとしての建築の箱を持っていません。
そうすると、展示そのものについても、自由度が増すのです。


展示そのものをパフォーマンスとしてなし得るのです。

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「作品展示」というと、画廊や美術館でのホワイトキューブといった抽象的な空間を前提にした展示をイメージしますが、それは美術作品の普遍的な展示形式ではありません。

たとえばアルタミラの洞窟における美術は、岩の固まりに彩色を与えた様なサイトスペシフィックものです。
つまりアルタミラの洞窟の美術は、サイトスペシフィック・アートなのです。
サイトスペシフィック・アート(Site-specific Art)とは、特定の具体的な場所に存在するために制作された美術作品およびその展示です。

このことから振り返って言うと、《近代》におけるホワイトキューブの抽象的な空間への展示というのは、実は《流通》を前提にした美術市場を象徴したものなのです。この展示性をもっとも具体的に示すのは、サザビーズやクリスティーズのオークション会場での展示です。その壁は、作品を展示しているというよりも、流通の壁であって、展示ではなくて流通なのです。実は昔の銀座の貸し画廊の白い壁もまた、流通の壁であって、ラブホテルのような貸し空間の壁というのは、通り過ぎるラブアフェアの空間と同様の、貸しという金銭取引の白い壁であったのです。つまり白い壁に展示するというのは、あくまでも金を基本においた市場の空間に過ぎません。それは全人類のすぐれた美術作品のありようを見てみれば分かりますが、《近代》特有の異常な展示であったに過ぎないのです。

さて、では情報文明における美術の展示というのは、どうなるのでありましょうか。つまりインターネット空間に美術作品を還元して行こうとする時に重要なのは、基本としては、《近代》特有の白い壁の展示を否定するものであることが模索されないと、面白くないのです。

越後妻有にしろ、四国にしろ、深川にしろ、何処で展示しようと、インタネットの情報空間に還元して行くのならば、もっと自由に展示もまたなし得るのです。展示というものの本来性や本質を否定して、非本質的で、非本来的な倒錯した展示の可能性を探してみる。これらは、情報化文明を否定する人たちが指摘するようにゴミ情報に過ぎないのですが、ゴミ情報こそが情報化社会の重要な文明なのです。何故にゴミで良いのか? それは人間存在そのものがゴミだからです。一片のゴミとして生きて死ぬことの正当性をかけて行く事がアートであって、そのゴミ性こそが、人間存在と文明の隠された真実を指し示すのです。

フリーアートの問題は、こうしたゴミ性と深く関わっています。フリーアートと、商品としての美術作品の両方から見る事においてしか芸術そのものの本質は見えないのであって、その意味でも、アートの情報化としての展示の追求(=フリーアート)は、やってみる値打ちはあるのです。










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