情報化社会の非本質化について(改題加筆2) [アート論]
越後妻有地域は道路がしっかりと、
どんな辺鄙なところまで舗装されている。
そして長い巨大なトンネルがいくつもいくつもあって、
驚かされるのです。
田中角栄の日本改造論の実現した姿を見せられます。
道路というのは,自然に踏み固められて出来るわけですが、
それは自然採取の原始段階です。
人間が農業をするようになって古代帝国ができると、
道路は都の中心から八方に向かって真っすぐに辺境まで舗装された道路が
作られます、秦の始皇帝やローマ帝国の道路は、こうして舗装道路をつくって、
馬にひかせた古代の戦車軍団を高速で辺境まで走らせて、
辺境で起きる反乱を鎮圧したのです。
ですから舗装道路というのは軍事道路に起源があったのです。
こういう歴史的な経緯で新潟の越後妻有の道路を見ると、
軍事道路というものにはすぐには見えませんが、すくなくとも極めて政治的な
道路には見えるものなのです。
政治的な道路というものの持つ暴力的な意思と理不尽さは、
しかし関越道路の巨大さを象徴として、確かに讃嘆すべき凄さを持っているの
ですが、その結果として若い住民は地方から移動して都会に出て行ってしまって、
過疎と少子化の荒廃と衰弱に見舞われてたのです。
つまり道路は素晴らしいのですが、結果は地域の衰退になったのです。
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近代という時代は、こうした道路をつくるにしても、やたらに大掛かりにい
行き過ぎる過剰さで、日本道路公団は機械のように道路を作りました。
こういう行き過ぎの質を象徴するのは、近代国家の≪性≫の政策です。
明治期の「生めよ増やせよ」という性の政策も過剰なもので、
自然性としての生殖の範囲を超えて大日本帝国の軍隊の兵隊を作り出すために、生むというセックスの過剰を奨励して行ったのです。そして戦争をしつづける戦争機械として作動して行く。つまりセックスが戦争機械のエンジンであるかのようなのです。ですから国家権力はポルノを取り締まったのです。ポルノを見てマスターベーションをされたならば、実際の生殖による人口の増大が阻害されるからです。
その意味で1965年くらいから始まるポルノ解禁の動きは、こうした「生めよ増やせよ」という近代という時代の本質的な生殖への介入が止まって、ポルノという性的な情報化を解禁することによって、生まない性の時代に転換したのです。今日の少子化の問題は、実はこうした情報化社会の非本質化の動きと一致しているのです。
繰り返して整理すると近代という時代の物質文明では、政治的道路をやたらに道路機械のようにつるくるのですが、脱近代の情報文明では、道路としては非本質的なインターネットの通信網での交流に重点が移って、会議も、実際に集まる回数は減って、ネット会議というバーチャルな会議空間になるのです。これを会議の非本質化と言っておきます。「非本質化」という言葉が馴染まないでしょうが、セックスで考えると、この言葉がもう少し、しっくりとします。
つまり自然の生殖の範囲を超えて、実際に妊娠出産を奨励する「生めよ増やせよ」という物質文明の近代国家政策としての性政策を本質的な性への還元主義であったとすると、情報文明の脱近代の社会では、ポルノを解禁して、非本質的な性で、実際の妊娠出産が伴わないバーチャルな性行動が蔓延して、少子化が進んでいくのです。
つまり物質文明では過剰な本質化が推進され、情報文明では倒錯した非本質が推進される。情報化社会の情報が、大半がゴミであるというのもそうなのですが、情報文明というのは、実は倒錯した次元の成立であって、非本質的な領域の成立なのです。つまり情報においてすらが非本質的なゴミ情報こそが、実は情報社会の主力の情報であるといえます。それはセックスの情報の氾濫による性の非本質化に見あっているのです。
現在の金融危機をまねいたサブプライムローンに代表される金融商品やFXのようなものは、経済の非本質化なのでありました。それが「根拠なき熱狂」に踊ったのです。
同様のことは芸術にも言えて、情報文明における芸術は非本質化が推進されるということでしょう。つまり芸術では無い偽の芸術こそが、情報化社会では氾濫する時代なのです。ここでも「根拠なき熱狂」がおきて、芸術なき芸術作品がダンスを踊ったのです。
情報文明そのものが、本質的な≪非本質化≫という構造の上で成立しているのかもしれません。
しかし現実は情報文明だけで成立しているのではないのです。
現実そのものが重層性で成立しているということを見る必要があります。
現在においても、自然採取の原始段階は生きていて、それがスポーツとしての
釣りやハンティングであっても、生きているのです。
さらに農業化社会の古代文明段階も、現在でもそのような質の次元が生きています。たとえばきちんとした割烹の料理などの領域です。
そして産業化社会の大量生産大量消費のメカニズムも現在も生きているし、建築や道路整備の中で生きているのです。
芸術も同様であって、多層的に成立しているといえます。自然採取段階の野蛮な美術も、そして農業化社会の古典的な芸術段階も、さらには近代のモダンアートの段階も生きているのです。その上に、現在の情報文明の芸術の非本質化が乗っているのです。
この重層化をひとつに実現することと。この重層性においては、情報化社会の真正の芸術が成立できるのです。
同時に情報化社会の非本質化というものの過剰な追及を試みてみたいという、
2つの方向の誘惑が私にはあります。
昨日、新宿の2丁目にあつまって上岡さん、栃原さん、そして木村さん、中川さん、友成さんと私の6人が集まって、気体分子ギャラリーのホームページの再改造の相談をしたのです。
その中で私が提案していたのは、上岡さんのフリーアートとのジョイントで、ひとつフリーアートという項目をホームページに入れようということです。
この中で、フリーアートの名において過激な芸術の非本質化を追及出来ないかということでした。
新しい手法で、観客参加型で実現させるつもりですので、ご参加いただければと思います。
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