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分解と構築化 [日記]

分解と構築化

モダンアートの中には、分解と解体への情熱があって、
何でも壊せば、前衛であると信じる面があった。

こんな難しい事を書き出しても、
なにしろ越後妻有トリエンナーレで旅先なので、
しっかりは書けないので、
メモ程度です。

一番分かりやすい面では、
マーレヴィッチのシュプレマティズム(絶対主義)であった。

kazemir.jpg

これをもって、抽象への到達と評価するのが一般的な現代美術史だけれども、
これはデザインであって、芸術にはなっていない。

実は、こうした作品は、私も学生時代にミニマリズムのショックを受けて
制作している。
しかし延々とコンプレッサーを吹いていて、
祖母からは気が狂ったと思われるほどの苦戦をしたのであって、
こうしたデザイン化が答えにはならないのです。

しかし現実の美術史は、こうしたデザイン化で答えだと思って錯誤して
推進されてきた面ははっきりとあって、
そうした錯誤だけを見れば、美術史の意味は図式以外にはなくなる。

なぜにそういう事に結果するかと言えば、
デザインと芸術は銅貨の裏表であり、
そしてまたエンターテイメントと芸術もまた、
銅貨の裏表てなのです。

裏表という事の、もっと問題は、
この裏と表を分離したのが、《近代》なのです。
つまり裏が表を欠き、表が裏を欠いた世界。
近代というものの破壊力の凄さは、
この分離にあったと思います。
だから芸術は、デザインに還元されると同時に、
芸術それ自身に、デザイン性を欠いて、還元されていった。

厳密に言えばシーニュの解体であったのです。
シーニュというのはフランス語のsigneで、直訳すれば「記号」です。

「シニフィエ」+「シニフィアン」=「シーニュ」というのが、
記号学の基本だというのは図式に過ぎなくて、
実際には、シーニュそのものが分解していく時代が近代であったのです。

マレーヴィッチの作品も、実はシーニュは解体されて、
シニフィアンに還元される事で、象徴界の作品になっている。
シニフィアンというのは「意味するもの」という、物質的な面なのですが、
こちらに還元されるのです。
だから、デザインにもかかわらず、芸術と錯誤する認識が成立したのです。

その事が無意味であった訳ではなくて、
モンドリアンでは芸術は成立し、
ジャッドまでの展開は、面白かったと言えます。

情報革命が進展すると、
どこからかシニフィアンの時代は終わって、
シニフィエへの還元が、状況を席巻します。

最初が誰であるのか決定は難しいですが、
メープルソープはシニフィアンの芸術ですが、
シンディ・シャーマンになるとシニフィエの芸術になります。
リチャード・プリンスも、典型的なシニフィエの芸術です。

プリンスの作品も、デザインではなくて真性の芸術になっているところが
凄いところで、そういう実例を見ると、
日本の作家のように、デザインが跋扈しているのは、
間違いであると思わざるを得ないのです。

書こうと思った分解と構築化については、
書けませんでした。
再度挑戦します。



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佐藤大輔

分解と構築、銅貨の裏表としての芸術とデザインの近代化による分離、とても興味があり勉強させていただきたいので時間がありましたら書いていただきたいです。
by 佐藤大輔 (2009-12-04 15:11) 

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